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第1章  僕と先輩の恋愛諸事情

 

 

 

 時は少しだけ遡る。四月の初め。僕が高校に入学したときのことだ。

 とうとうこのときがやってきたと思って、僕は期待に胸を高鳴らせた。

 ついにあの人のいる学校へ通える。入試の内容など頭から全部すっぽ抜け、僕はただひたすらそのことばかりを考えていた。

 またあの人に会える。

 中学の頃からずっと憧れ続けていた、伊勢原(いせはら)美優奈(みゆな)先輩に。

 

 最近の小学生はませてきている! なんて声が高らかに聞こえてくる昨今。けれど、実際に異性を異性として意識する小学生なんてほとんどいない。いたとしても、それはほんのごく一部の例外であって、けして一般的とは呼べない。普通に男子も女子もみんな友達で、そこに特別な区別なんて存在しない。少なくとも僕の周りはみんなそうだった。

 だけど中学生は違う。中学校に入学した少年たちが初めに目にするものは、二次性徴を経て女性としての体つきを獲得した、先輩たちの大人びた姿だ。つつましいながらも女性らしい胸のふくらみ、くびれのついた腰回りなんかを見て、僕たち透き通ったガラス玉みたいな純朴な男子たちは、みな外殻をかち割られるような衝撃を受ける。

 そう。中学一年の頃というのは、僕たち多感な男子たちにとって、いたく特別な時期なのだ。

 そんなときに出会ったのが、伊勢原美優奈先輩だった。

 ――天使って本当にいるんだ、と思った。

 彼女の美しさを形容するには、この世に存在する全ての文字を使ってもまだ全然足りない。

 いや、世界中のどんな言語を使っても、先輩の美しさを言い表すのは不可能だと思った。

 美しさという概念すら軽く飛び越えて、彼女は僕の前で神々しく光り輝いていた。

 忘れもしない。あの日の放課後、学校の廊下で初めて彼女の姿を目にしたとき、僕はそれまで頭の中にあったことを全部忘れて、それから三時間あまりも茫然自失の状態で立ち尽くしていた。まるで雷が窓から入ってきて、僕一人めがけて直撃したようだった。

 気づいたときには周りには誰もおらず、完全下校時刻を大幅に超過していた。

 その次の日から、僕は手当たり次第に友人知人をとっ捕まえて、あの人が誰なのかを聞きまくった。

 しかしいかんせん彼女の容姿を表現するには言語という概念だけでは不十分だった。

 仕方なく「とてもきれいな」とか「髪にツヤがあって長い」とかいう漠然とした情報を頼りにするしか他になかった。

 当然、めぼしい答えは誰からも得られなかった。

 ――と思っていた矢先。

「なあ圭太(けいた)、おまえの言ってる人って、もしかして伊勢原美優奈か?」

 思わぬところから有力情報が飛び込んできた。出処は、クラスメイトの平林泉という男子。灯台下暗しというか、これぞまさに天佑神助。僕は彼に詰め寄った。

「知ってるのか!?」

「ああ、一応な。小学校が同じだし、兄貴のクラスメイトだ」

 なんたる僥倖。僕は喜びにうち震えた。彼と仲良くしていれば、あわよくば彼女と会って話せる機会が得られるかもしれないじゃないか。

「クラスは?」

「三年五組だったと思う」

「会わせてくれ」

「断る」

「え!?」

 思わぬ言葉が返ってきて驚いた。そこは「いいぜ、任せろ」と胸を叩いて言うところじゃないのか。

 しかし彼はかぶりを振った。

「ただ兄貴の知り合いってだけで、別に俺もそこまで親しいわけじゃないしな。いきなり会いにいったところで、びっくりさせるだけだと思うぞ」

 確かにその通りだ。小学校が同じと言っても、年が二つ離れた上級生。そこまでなれなれしく話しかけられるような仲じゃないのかもしれない。

 彼が「伊勢原美優奈」とフルネームで呼び捨てにしたのも、とどのつまり親しい間柄にあるからというわけじゃなくて、むしろ親しくないことの表れなのだろう。

「まあ俺も話をしたことがないわけじゃないけどな。掃除のときとか学校行事とかで、しょっちゅう一緒になってたぜ」

 泉は、鼻にかけるようにそう言った。

「くそう、羨ましいなあ」

「へへ、確かにあの人は見た目はいいけどよ、性格は普通だぜ。話してみりゃあわかる」

「彼氏とかいるのかなあ」

「いや、いないな」

 驚いたことに泉はきっぱりと言い切った。

「あの人はどえらいお嬢様でな。母親はどこぞの社長令嬢で、父親は現大企業の社長らしい。で、爺さんがそこの名誉会長だってな。とにかく親の躾が厳しいんだ。娘にも政略結婚させる気まんまんだ。それまでは誰一人として男を近寄らせたくないらしい」

「うわ、なんかすごそう」

 そんなすごい家系のお嬢様だったのか。ただ容姿が麗しいだけじゃなくて、そのうえお金持ちのお嬢様だったなんて。いったい前世でどんな徳を積んだらあんなふうになるのだろう。

「なんせ見た目があれだからな。もちろん言い寄る男は数知れずだ。だが、ものの見事に全員ふられた。あの人は誰とも付き合わなかったんだ。

――おまえ、稲原ユウジって知ってるだろ」

「ここの卒業生で、高校生モデルやってる稲原ユウジ?」

 彼はうなずく。

「そうだ。あの人、年齢的には美優奈の二つ上だろ。中学ではサッカー部でキャプテンやってて、勉強では学年トップ。それに加えてあの容姿だから、それはもう女子からの人気はすごかったらしい。あの人と同学年の女子で、あの人以外の男子の名前を十人も覚えている人が一人もいなかったくらいだ」

「誰が何の目的で取った統計なの、それは?」

「だかな。困ったことにその稲原ユウジが、当時中一だった美優奈に一目惚れしちまってよ。寄りつく女を全員ふってまでして、頭を下げて頼み込んだらしい。俺と付き合ってくれってな。だが、やっぱり美優奈の答えは『NO』だった。どういう断り方したかは知らねえけど。後にも先にも、あの稲原ユウジをふった女はあいつ一人だけだ」

「へえぇ」

 なぜだか、歴史的偉人の伝説を聞いているような気持ちになってしまう。僕とはまるで住む世界が違いすぎて、現実味がまったく感じられない。

「もしかしたら男に興味がないんじゃないかって噂も立ったくらいだ。で、試しに女に告白させてみたら、走って逃げられたらしい」

「何やってんだ」

 何の実験だ。人の恋路をモルモットか何かみたいに扱うな。

「とにかくそういうわけで、伊勢原美優奈のガードの固さは核シェルター並だ。もしおまえがあいつに気があるってんなら、友人として、ふられる前に忠告しといてやる。諦めろ。おまえや俺のような小市民がいくらアピールしたところで、あいつには塵の一粒くらいにしか見えてないはずだからな」

「そうなんだ」

 聞きわけのよい性格に育てられたことだけがアピールポイントだった僕は、そのとき素直に泉の話を信じ込んでしまっていた。彼女はやはり自分とは違う世界に住む人なのだと。手の届かないところにいる人なのだと。

 後で考えれば、彼が頑なに僕を彼女と会わせたがらなかったことにも彼なりの意図があったのだろうけど、そのときの僕はそんなこと考えもしなかった。

 以来、僕は結局伊勢原先輩と顔を合わせる機会を得られず、一言も言葉を交わすことはなかった。

 そしてほどなく一年という時が過ぎ、伊勢原先輩は卒業して僕たちの前から姿を消した。

 かろうじて、彼女が私立の霧虹丘(むこうがおか)学園高校に入学したという情報を泉経由で手に入れることができたけど、ただそれだけ。

 僕の恋心は諦めの境地へと達し、先輩の印象も僕の記憶から薄れていくばかりだった。

 今にして思えば、どうして僕がそんなふうに手をこまねいていたのかわからない。

 何がなんでも先輩に近づくための努力をして、悔いの残らないような学校生活を送るべきだったのに。

 世間知らずの純朴さゆえか、そのときの僕にはまだそれだけの思い切りがつかずにいたのだった。

 先輩のことを思い出すきっかけになったのは、何気なく書店で手にとった一冊のライトノベルだった。

『僕と先輩の恋愛諸事情』という表題のその小説は、上級生の先輩に淡い恋心を描く少年の心の揺れを繊細にタッチした、すばらしいジュブナイル作品で、読んでいるうちにみるみる物語に引き込まれて主人公に感情移入し、先輩に恋し、裏切られ、失望し、それでもなお諦めきれずにあがいてあがいてあがき倒して最後の最後に幸福の端緒を掴み取るという後味爽やかな読後感を得たところで、唐突に思い出したのだった。

 僕にもかつて一目惚れした先輩がいたことを。

 それからの僕の努力は、筆舌に尽くしがたい。

 僕の学力ではとても入れないと言われていた私立の名門霧虹丘学園高校。志望校をそこだけに定め、休みの日は一日十五時間勉強。

 少しでも授業でわからないところがあれば恥も外聞も捨てて同級生に聞きまくり、最も効率のよい勉強方法を家庭教師の先生から教わった。

 先輩に会いたい。先輩と話がしたい。そしてあわよくばあの小説の主人公のように、劇的なドラマの果てに、先輩と想いが通じ合い、一緒になれたらと、ただそれだけを白日夢のごとく渇望して、無我夢中で勉強しまくった。おかげで成績はみるみる上昇し、偏差値七〇オーバーとも言われる霧虹丘学園高校をも射程範囲に入れたところで、母親の目ん玉は飛び出し、泡を吹いてぶっ倒れた。僕の熱意は、高い私立の学費を払ってもらうだけの説得力を持った。

 そして今年。僕はついに憧れの伊勢原美優奈先輩のいる霧虹丘学園高校に、無事入学したのだった。

 

                               ☆

 

 入学が決まった時点で、僕はあれだけ頑張ってきた高校受験の内容を一瞬にして全て忘れた。

 今や僕の目標はただ一つ。伊勢原美優奈先輩とお近づきになること。そのためにはどんな手段も惜しまない心づもりでいた。

 中学時代の一目惚れが悔いの残る結果に終わっただけに、高校に入学した時点での僕の決意は揺るぎないものに変わっていた。

 たとえ先輩が泉の言うように僕のことを一介の塵粒とみなして目にもかけないというのなら、僕はストーカーまがいのことをしてでも先輩の視界に入る努力をするだろう。

 たとえ先輩が誰か男の人と付き合おうものなら、僕はその人に嫌がらせを繰り返して先輩を諦めさせるという手段をいとわない。

 もしご両親が僕と先輩の仲を引き裂こうと企てるなら、僕は銃をも握るつもりでいる。そうして数々の障壁や苦難を乗り越え、僕と先輩は一緒になるのだ。

 あの小説の主人公のように。

 今の僕には十分その覚悟があった。

「おまえには呆れるよ」

 平林泉が、僕に囁きかける。言うのを忘れていたが、こいつも僕と同じく霧虹丘学園に合格しているのだ。実は頭いいんだよな。しかも奇遇なことに、一年次は僕と同じクラスである。

「そんなに伊勢原美優奈のことが好きなのか」

「ああ、大好きだ」

「はっきり言ってくれるな。それなら俺は止めはしねえよ。もっとも、応援もしないけどな。ま、せいぜい頑張ってくれ」

 そうして泉は僕の肩をポンと叩いた。

 言われなくても、僕は前だけを見ている。

 ――まずは、先輩が所属している部活を探さなければいけない。

 

                                ☆

 

 伊勢原先輩は、中学時代は女子バレーボール部で副キャプテンをやっていた。だから高校でもバレーをやっているのかと思いきや、意外なことに、彼女が所属しているのは、文芸部だという。

 そのことを泉から聞いて、僕は内心で盛大にガッツポーズを作った。

 女子バレー部では僕が入部する手立てはないけれど、文芸部なら男女関係なく参加できるからだ。

 そんなこんなで、僕はクラスの担任の先生や、泉以外のクラスメイトの名前を覚えもせずに、文芸部の部室へと足を運ぶことばかり考えていた。

「圭太、おまえ文芸部に入るのか」

 泉が僕のところへやって来てそう言った。

「ああ、そうだよ」と僕は答えた。「伊勢原先輩がいるからな」

 もちろん、それが理由の九〇%を占めていることは事実だったけど、それだけじゃない。中学生のとき『僕と先輩の恋愛諸事情』というライトノベルを読んでから、自分でも小説を書いてみたいという想いをずっと持っていた。

 そういう意味で、伊勢原先輩が文芸部にいるというのは、僕にとって運命的な何かを感じさせるめぐり合わせのように思えるのだった。

「そうか。実は俺も入ろうと思っているんだ」

「ふーん……え、なんで?」

 思わず聞き返していた。

 ――いや、僕としても泉が一緒に来てくれるのはありがたいけど。なにしろ彼は僕と伊勢原先輩との唯一のつながりともなり得る存在なのだ。

 だけど純粋に、泉が文芸部に入りたがる理由がわからなかった。本とか読まなさそうなのに。

「見くびるな。読みまくりだ」

 絶対嘘だろうけど。泉はやけっぱちのようにそう言うと、

「ところでおまえ、文芸部の部員が何人いるか知ってるのか?」

「いや、知らないけど」

 文芸部といえば文化部の中でも地味なイメージがある。せいぜい三、四人か、多くて五、六人くらいで活動してるんじゃないかと思った。

 だからこそ伊勢原先輩との距離が近づけると思って大喜びしてたのに。

「実はこの学校の卒業生に、何てったっけな。有名な作家さんがいてな。たまに文芸部へやってきて、レクチャーしてるらしいんだ」

「へえ、そうなんだ」

「ああ。それでな、その人けっこうファンが多いらしくて、それ目当てで入部する人もいるから、部員数が異例の多さで、今十五人くらいいるらしい」

「げっ、そんな多いの?」

「かくいう美優奈も、その人が目当てで入部したクチかもしれん」

 なるほど、確かに伊勢原先輩はその作家さん目当てで入部したのかもしれない。

 でも、もしかしたらそれ以外の面々はみんな、伊勢原先輩目当てで入部したんじゃないだろうか。僕みたいに。

「とりあえず、体験入部が始まったら行ってみようぜ」

 泉がそう言った。ああ、言われなくても行くともさ。

 

                                   ☆

 

 その日は入学式ということで、新しいクラスメイトとの初顔合わせ以外のことは大して何も行われず、教科書や参考書の類をひと通り配られただけで、その日は帰宅することになった。

「おまえなあ、クラスメイトとも一応は仲良くしとけよ」

 と、泉が僕に忠告する。僕があまりにも伊勢原先輩のことばかり話すから、心配にでもなったのだろう。

 彼の懸念通り、僕は今日、教室で泉以外の誰とも話をしていないし、一人も顔を憶えていないし、先生の名前すら頭に入っていない。

 そんなことにはとんと興味がないのだ。

 でも、入学式初日って、得てしてそんなもんじゃないの?

 泉と並んで階段を下りていき、玄関で靴を履きかえる。そこでふと外に目をやった泉が、「げっ」と低いしゃっくりのような声を上げた。

 市街地から少し外れた郊外の高台に位置する霧虹丘高校は、敷地面積がヘタな大学のキャンパスにひけをとらないほど異様に広く、玄関から校門まで、緩やかな下り坂が一〇〇メートルばかり延々と伸びている。その坂道の両脇に、上級生と思われる生徒たちがずらりと隙間なく並び、校舎から出てくる新入生たちを捕えるべく、虎視眈々と待ち構えているところだった。

 上級生たちの服装は、紺色の制服ブレザーを着ている人たちだけじゃなくて、各種スポーツ競技のユニフォームや、学校指定の体操服に身を包んでいる人も大勢いた。実際、僕たちより先に出てきていた生徒たちは、むくつけき男衆に取り囲まれて、身ぐるみを剥がされる勢いで蹂躙されていた。あれはおそらく、ラグビー部とかレスリング部とか、そういう部活動の類だろう。

 お祭り好き――もとい熱血滾る青春の運動部員たちは、新入部員の勧誘にも手を抜くことはない。

「部活勧誘か」

 泉が面倒くさそうに口をすぼめて呟く。「すでに入る部を決めてる人間にとっては、煩わしい限りだよな」

「強引な勧誘は逆効果だよね。どうしてわからないのかな」

 もともと入るつもりのある人は入るし、入る気のない人はどうやったって入らない。むしろ恐れをなして逃げていく。

 本当に部員勧誘をすべきなのは、入部希望者がいなければ廃部になってしまうとか、そういう極限的に切羽詰まった状況にある部活動だけでいいのに。何が悲しくて、全部の部活が雁首揃えて、新入生を脅かしにかかる必要があるのか。お祭り好きか!

 ――とは言いながらも、そこは入学シーズンの風物詩。僕の心はうきうきと高鳴っていた。

 そして僕は無意識に、ありんこのように群れる上級生たちの中に、ただ一人の存在を見つけだそうと躍起になっていた。

 見つけだせると思っていた。僕の目がほんの一瞬でも彼女の姿を捉えて、見過ごすはずはないと確信していたから。

 

「あれ、泉じゃないの?」

 

 不意に背後から呼びかけられた声に、僕は心臓が破裂しそうになった。

 先輩の声だ。

 てっきり列に並んでいるものだと思っていた伊勢原美優奈先輩が、玄関から出たばかりの僕たち二人のすぐ横に立って、あろうことか声をかけてきていたのだ。

 文化部らしく、ブレザーの制服をかっちりと着こなした伊勢原先輩。

 学校指定の黒いスクールバッグを肩に提げたその姿は、中学のころに見たときより、かなり印象が違っていた。

 大人っぽくなっていたのだ。

 僕たちの住む地域では、なぜかどこの学校も中学は女子がセーラー服で男子は学ラン、高校は男女ともブレザーと、多少のデザインの違いはあれ、基本的に統一されている。当然それに伴うイメージも形成されてしまうわけで。

 すなわち中学生が着るセーラー服は相対的に幼く、高校生が着るブレザーは大人っぽいという固定観念が強固に刷り込まれていたのだ。

 そしてその大人っぽいブレザー制服に袖を通した伊勢原先輩は、中学のときよりも十倍増しで美しく見えた。

 そのときに僕が受けた衝撃と言ったら、

 初めて先輩を目にしたあのときのように。

 雷撃に打たれて自我を喪失したように。

 僕はまた、その場に立ち尽くしたのだった。

「なんだ、美優奈か」

 泉は、さもありきたりなものを発見したかのような、なんでもない態度を取る。

「なんだとは何よ。人がせっかく幼馴染のよしみで、新しい高校生活に不安を抱えているであろう後輩にアドバイスをあげにきたのに」

「余計なお世話だっつーの」

 幼馴染か。甘美な響きだな……とか思いながら、僕はそんな二人のやりとりを、茫然と眺めていた。

 というか、純粋に羨ましい。なんだよ、泉。前はそんなに親しくないって言ってたくせに。めちゃくちゃ親しげに伊勢原先輩と話をしてるじゃないか。

「どうだった、クラスのほうは?」

「まだわかんねえ。中学時代の友達が一人いるから、不安はなかったけど。コイツ」

 泉に脇腹を小突かれて、ようやく我に返り、僕は俄然現状を理解する。

「そうなんだ。キミも揺雲中だっけ。名前なんていうの?」

 僕がそこに見たのは、まさに奇跡としか言いようのない、信じられないような光景だった。

 先輩が、僕に話しかけている。

 僕に微笑みかけながら。名前を聞いてくれている。

 先輩の声はとても澄んでいて、それはまるで清流のせせらぎのようで、滑らかに僕の耳を透過し、心に直接響かせているようだった。

 先輩の口から発せられる一音、一字一句が、僕の心臓を打つように弾んで、少し胸が苦しく感じるほどだった。

 ここで深刻な問題がある。たとえば目の前に突然神の使いが現れたとして、そのとき人はまともに口を利いて話ができるのか、ということだ。

 その答えは絶対に否であり、それとほぼ同様の状況に陥ってしまった僕が先輩の前でまともに言葉を発せられるわけがないのだった。

「あの……あぅ、あぶあわば」

「あははは。緊張してるみたいだね」

 僕の反応を見て、先輩がおかしそうに笑った。

 うわあ、死にてえ。これは恥ずかしい。頭の弱い子だと思われる。

「そいつは相澤圭太。中学のあいだずっと俺とクラスが同じだったんだ」

 上手く口を動かせなくなってる僕を見るに見かねてか、泉が代わって紹介してくれた。

「ふーん」

 納得したように目を細める伊勢原先輩。

「学校生活で何か困ったことがあったら、遠慮せずに何でもあたしに言ってきてね。同じ中学のよしみで、助けてあげるよ」

「はっ……はい、あの。ありがとうございます」

 声を裏返らせながらも、ようやくまともな言葉が口から出てきてくれた。

「ふふっ。よろしくね。あ、でも泉がいるから余計な心配は無用かな」

「まあな。てか高校生活で困ることって別にねえっしょ」

「そうかな? たとえば、先輩との接し方とかさ」

 そこで伊勢原先輩の泉を見る目つきが少しだけ鋭くなったような気がした。

「泉、あんたさぁ、学校ではなるべく敬語使いなさいって、あたし言わなかったっけ? 他の後輩が見てる前で、示しがつかないんだから」

「えー、そんなとここだわる? 今さら美優奈に敬語とか、変な感じ」

「ごめんね、相澤くん」

 伊勢原先輩が、苦笑いしながら言う。

「あたしと泉は付き合い長いからこんなんだけど、きみは泉の真似しちゃダメだからね」

 なんともなしに発したであろう伊勢原先輩のその言葉は、思いのほか僕の心に深く突き刺さった。

 ――泉はよくて、僕はダメ。

 そこに明確な線引きがなされたようで。

 実際そうなのだろう。小学生からの顔なじみである泉と、ろくに言葉を交わしたことがないどころか、同じ中学出身なのに名前さえ知られていなかった僕。最初から、二人の立場が対等でないことはわかりきっていた。

 伊勢原先輩にとって、僕なんて一介の塵でしかないという、かつて泉が語った言葉を思い返す。

 冷静になって考えれば、伊勢原先輩は単に「上級生には敬語を使いなさい」って言っているだけなんだけど、そんなこともわからないほど動揺してひとりで勝手に傷ついている僕の心情など気づくそぶりもなく、伊勢原先輩と泉の会話は弾んでいく。

「今日はもう帰るとこ?」

「ああ。入学式の他はやることないからな」

「そうなんだ。部活はどこ入るかもう決めた?」

「いや、まだ」

 そう言ってから、泉はちらりと何か言いたげに僕のほうに視線を送った。

 何だよ。そんな顔されたって、僕はまだ自分から伊勢原先輩に話しかけるなんてできないぞ。

「それならさ、文芸部は興味ない? 実はあたし、今年度の部長にされちゃってさ。知ってるでしょ」

 なんと。伊勢原先輩がいるからという、ただそれだけの理由で文芸部に入る気満々だった僕に対して、当の本人からお誘いがあるなんて、なんたる僥倖!

 いや、伊勢原先輩は今、部員として新入生の勧誘を行っているのだから、それはごく自然なことで何もおかしくはないのだけれど、夢心地で有頂天になっていた僕にとってそれは、何か運命的なものであるように感じられた。

「部長って、本当かよ。美優奈は本読まないだろ」

「読まないよ」

 泉の言葉に呼応して、伊勢原先輩はきっぱりと言い切った。

 意外だ。先輩、本読まないのか。すごく教養深そうに見えるのに。

 というか、本を読まないなら実際なんで文芸部に入ってるんだろう。泉でなくても、そこは確かに気になるところだ。

「本読まないならせめて編集作業しろって言われて、部長に回されちゃった。編集統括するのは、毎年部長の仕事なんだって」

「本も読まないやつが文芸部の部長なんかやってたら、それこそ後輩に示しがつかないだろ」

「いいのっ。部長以下がしっかり真面目にやってくれれば。部長はみんなの取りまとめ役ってことで」

 確かに、伊勢原先輩ほど人望が厚くてしっかりした人なら、安心して取りまとめを任せられそうだ。

 いや、むしろまとめられたいです。先輩、僕をまとめちゃってください。

「相澤くんだっけ。きみはどうかな? 小説書くのとか、読むのとか。興味ない?」

 急に話をこちらに向けられて、泡を食ったようになってしまう僕。思わず変な言葉を口走る。

「あう!? あわわ、あぶだび」

 うわぁ、これ絶対変なヤツだと思われちゃったよ。どうしよう、死にたい。死ぬところまでいかないにしても、今すぐこの場から消えたい。溶けてなくなりたい。

「そいつは昔から人見知りするやつなんだ。気にしないでやってくれ」

 泉が若干呆れながらもフォローを入れてくれたおかげで、なんとか助かった……のか?

 伊勢原先輩はまた「ふぅん」と言って、納得したようにうなずく。

「一応チラシ作ったから、渡しとくね。体験入部は来週の月曜からやるみたいだから、もし興味があったら、部室きてね。二人とも歓迎するよ」

 言いながら、伊勢原先輩はスクールバッグの中からA四の紙を二枚抜き取って僕と泉に手渡す。

 受け取ったチラシには――やはり文化系の部活だけあって、女子部員の比率が高いのだろう。女の子らしいファンシーな動物の絵柄と、文芸部の簡単な活動内容がこれまた丸っこい字で書いてあった。

「あ、ありがとうございます」

 結局、僕が言えたのはその一言だけだった。先輩は「それじゃあね」と言って手を振ると、向こうのほうで待っている友人たちのところへと、軽快な足取りで駆け戻っていった。

 泉はふう、と小さくため息をついて肩をすくめる。

「な。普通だろ」

「うん、思ってたより」

 お金持ちのお嬢様というから、どれほど近づきがたい存在なのだろうとびくびくしていたら、泉の言う通り意外と親しみやすそうな人だった。

 僕としては、先輩と上手く話ができなかったのが悔やまれるところだけど、まあ最初のうちはこんなもんかと前向きに考えるようにする。

 先輩と同じ部活に入れば話す機会も増えるだろうし、頑張るべきはこれからだろう。

 

 泉と並んで歩く帰り道。先輩と話せたことの嬉しさで、僕は夢心地に浸っていた。

 さっき玄関のところで起こった、本当に夢のような体験を何度も何度も思い返す。

 先輩の澄んだ声、きれいな瞳、柔らかな笑顔を思い返すと、そのたびになんだか地面から足が浮き上がるような気がした。

「さっきのやり取りで、美優奈のことが全部解ったなんて思うなよ」

 道中、ふと泉がそんなことを言った。

 

                              ☆

 

 僕は家に帰ってから、さっき伊勢原先輩から手渡しで受け取った文芸部のチラシを、改めてまじまじと眺めた。

 ああ、先輩の指紋やDNAが付着したこのチラシを僕は一生の宝物にしよう、とか自分でも気持ち悪いと思うようなことを考えながら、なんとなくそこに書いてある内容に目を通していると、ふと、その中の一文に目が留まった。

「本校の卒業生であり、現役作家として活躍しておられる伊藤正美先生(代表作:『夕暮れ恋の唄』、『幸せの扉を叩く音、』『僕と先輩の恋愛諸事情』等)に特別講師としてきていただいています!」

「……うん!?」

 思わず声に出して驚いてしまう。

 伊藤正美先生。

 その名前を、僕は一瞬たりとも忘れたことがない。

 ここにも書いてある通り、僕の大好きなライトノベル『僕と先輩の恋愛諸事情』の作者であり、僕が誰よりも敬愛する、憧れの作家さんだからだ。

「泉が言ってた、うちの学校の卒業生で有名な作家さんって、伊藤先生のことだったのか」

 あまりの衝撃と興奮のあまり、紙を持つ手が震えた。

 ――これはまさしく運命だ。

 僕がライトノベルを書きはじめたのは、文芸部に入ることを決めるより少し前のことだった。

 あの『僕と先輩の恋愛諸事情』を読んでから、ずっと小説を書くことに憧れていた。

 苦難極まる受験勉強を乗り越えて、ついに高校生になったのを機に、春休みに入ったころから少しずつ書きだしていたのだ。

 つまり、前にも言ったことだと思うけど、僕が文芸部に入ることを決めた理由は、必ずしも伊勢原先輩がすべてではなかったってことだ。

 僕の中で、むらむらと執筆意欲が猛烈に高まってくるのを感じた。

 書きたい。――僕は、小説を書きたい。

 僕は机の引き出しにしまっていた小説ノートを急いで取り出すと、欲求の赴くまま、ペンを走らせた。

 

                              ☆

 

 目を開けると、俺は宙に浮いていた。

 まるでたゆたう水に流されるように、俺はゆっくりと風に乗って、空中を漂っていた。

 眼下に広がるのは、俺の生まれ育った、見慣れた町の景色だ。海に面した丘のある町。

 空から眺めるそれはとても美しく、何よりも尊くかけがえのないものに見えた。

 周囲は輝きで満ちていた。金粉を振りまいたようで、透明感のある大気がぴかぴかと、とても艶やかな錦に彩られていた。

 暑くもなく、寒くもない。不快な気持ちのまったくしない、とても心地よい感覚だった。そこで俺は思い至るのだった。

 そうか、俺はさっき死んだんだ。

 すると今は天国に向かっているのだろうか。こんなにいい気持ちなのだから、よもや地獄ではあるまい。

 天国に、行けるのだろうか。

 何もせず、誰にも認められず、ただぼんやりと惰性で生きただけの生涯の幕を閉じて、俺は本当に天国に行く価値があるのだろうか。

 そんな疑問ばかりが頭に浮かんでくる。ただし不安や憂鬱な気持ちはない。ただ無気力に、思考に流されるまま想像をめぐらせていた。

 そんなとき、見上げていた頭上天高くに、きらりとひときわ明るい光を放つものが現れた。

 それは針金のように細く、へびのように躯体をくゆらせながら、次第に俺のほうへと降下してきた。

 それは金色に煌く鱗を持った龍であった。

 龍は俺のすぐ側までやってきた。その体は俺よりも何十倍か大きかったが、不思議と恐怖心は抱かなかった。

「何しに来た」と俺は言った。

「愚かなる亡者よ」

 龍はうなるような低い声で言った。その声はまるで怒っているようでもあった。

「無意義な生涯を終えし者よ。汝に今一度生を授く機会を与えよう」

 虫のいい話である。何をしに来たのかと思えば、この龍は俺をもう一度現世に生まれ変わらせてくれるという。

 その理由は、あまりにも俺の人生が無意義で見るに耐えなかったから。

 あまりといえばあまりに失礼な話。人の生き死にを捉まえて、身勝手を働くにもほどがあるだろう。

「汝はあれほど無意義な生涯を送っておきながら、未練や後悔すらないという。本来ならば捨ておくところだが、その態度は看過できぬ。どうだ。我の力をもってすれば、貴様の望む通りの人間に生まれ変わることもできるぞ。そう、たとえば」

 たとえば――。一瞬、俺の脳裏をよぎった願望。

 お金持ちの家庭に生まれた子供。女ならなおいい。見目麗しく、格調高く、人望を一手に集め、一生涯の安寧の約束された、誰もが羨むような人間に。

 もしそういう人間に生まれ変われるのなら、もう一度やり直したい。

 …………。

「要らねえ」

 しかし俺の口から出てきたのは、そんな言葉だった。

「なぜだ? 今一度生まれ変わり、人生をやり直したいと思わないのか」

 思わないことはねえよ。……だけど、俺なんかよりもっとやり直したいと思ってるやつは山ほどいるはずだ。

 一生懸命目指していた夢の半ばで運悪く突然死んだやつとか、大切な人を残して命を失った人たちとか。

 手前勝手に人を生き返らせる力があるなら、そういう奴を優先してやらねえか。よりにもよって俺のところなんかに来るんじゃねえ。

 俺はもういいんだ。未練はねえんだよ。だから、このまま逝かせてくれ。それでいいんだ……。

「よかろう。汝の意志は聞き届けた」

 龍は相変わらずの深く野太い声でそう言った。

「汝は合格した。先の問いかけは、無意義な人生を過ごし、後悔と未練にまみれた全ての亡者に対してしているものだ。もしも生まれ変わりたいなどと言えば、ただちに地獄送りにするところであったが、汝は己が欲望を抑え込み他の者への深慮を見せた。汝は善人である。見返りとして、今一度新たなる生涯をここに授けよう」

 言い終えると、急に龍の体が激しく輝きだし、俺はなすすべもなく光の中に飲まれていった。

 

                            ☆

 

「こうして自分の望んだ通りの姿に生まれ変わった主人公は、新しい人生でいろいろな経験をしていくわけだけど――」

 ここからどうしよう。今はまだ何も思いつかないけど。とりあえず今日は第一章まで書けたことだし、ここで一旦筆をおくことにしようかな。

 うん、まずまずの出来だ。

 続きは、来週。文芸部に入ってから、先輩や先生たちのアドバイスを受けて書くことにしよう。

 僕は、書きかけのノートとペンを鞄にしまい、ベッドの上に仰向けに寝転がった。

 順調、順調、と。

​初稿執筆:2016年

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