生まれ変わったら美少女になりたい!



第2章 文芸部の部長は本を読まない
入学して一週間も経てば、ひと通りのオリエンテーションも終わり、クラスの半分くらいは嫌でも名前を覚えてしまっている。
けれどもそんなのは僕にとっては本当にどうでもいいことで、僕はただ文芸部の体験入部に行ける月曜日のことだけを考えていた。
そしていよいよその日の放課後がやってきた。泉を誘って部室棟へと向かう道すがら。泉はずっと「気乗りしねえなあ」と呟いていた。
――だったらなんで文芸部に入ろうなんて思ったんだよ。
「俺はおまえのストッパーだかんな」
泉は言った。「おまえが暴走して、美優奈に対する凶悪犯罪行為に走らないように、俺が目を光らせとかにゃならん」
失敬な! 僕はそんなことをするつもりはさらさらない――と言いたいところだけど、もし仮に伊勢原先輩に好きな男の人ができようものなら、僕はその相手に犯罪まがいのいやがらせ行為を延々と重ね続けるだろうことは疑いようもない。
そういういことならわかったよ、泉。気のゆくまで僕のストッパーとして働き続けてくれ。
部室に入ると、四角に並べられた五人がけの会議机を取り囲むように、十人ほどの生徒たちが着席し、思い思いに会話に花を咲かせていた。
そのうちほとんどが女子生徒で、二人だけいる男子生徒はどちらも根暗そうな感じで、まかり間違っても伊勢原先輩が恋愛対象として見ることはなさそうだったので、僕は少しだけホッとした。
――そんな考え方ばっかりしてちゃダメだってのはわかってるけど。
それはともかく、机の上に整然と配置されたペットボトルのお茶と紙コップから、そこはかとなく新入生歓迎の熱意が感じられて、恐縮してしまう。
伊勢原先輩は、一番奥側の机の真ん中、ちょうど上座の位置に座っていた。髪型はこの前と少し変わっていて、アップに結っている。
――ああ、今日も綺麗です。美しいです、先輩。
「みんな、一年生が来たよ」
僕たちの姿を認めて、部員の一人が声を上げた。一斉にみんなの視線がこちらに集まって、少し照れくさい想いがした。
「さ、こっちきて座って座って」と、空いていた席に座らされる。
「お茶どうぞ。君たちどこ中出身?」
近くにいた女子生徒が、僕たちの前に置かれた紙コップにお茶を注いでくれた。僕たちは畏縮して頭を下げる。
「美香」
静かな声で呼びかけたのは伊勢原先輩だった。
「自己紹介は後で、みんな来てからにしましょう」
☆
結局、僕たちの後にもう一人、一年生の女子生徒が入ってきて、この日の体験入部に参加する新入生は三人だけとなった。
「それじゃ、時間になったので始めましょうか」
伊勢原先輩は新入生の数が少ないからといって特に残念がる様子もなく、壁かけの時計を見上げながら、淡々とした口調で言った。
「新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。わたしたち霧虹丘学園高校文芸部一同、みなさんの入学を心からお祝いします」
先日とは打って変わって、えらく事務的な口調で挨拶を述べた。
「それから、今日の体験入部に文芸部を選んでくださって、ありがとうございます。わたしは文芸部部長、三年四組の伊勢原美優奈です。わたしたちは毎日ここで、文芸に関する活動――簡単に言うと、小説を読んだり書いたりしながら、主として日本語、日本文学への理解を深めていく活動を行っています。もちろん外国文学も歓迎ですが……」
そこで先輩は一度言葉を区切った。外国文学を読む分には問題ないが、それを真似て書こうとするのはあまり好ましくないということだろう。
洋書には、翻訳という過程が一度挟まれており、それによって原文にあった含意や、作者が意図した言葉の美しさが失われるといった事象が必ずと言っていいほど起こっている。言ってしまえば、翻訳というのは贋作を作り上げる行為に他ならず、それを真似て書くことはよろしくないのだろう。
「難しく考える必要はありません。ただ読書をしながら教養を深めていこうというのが、この部の理念ですから。現に国語のテストで点数を上げたいという理由で入部した部員もいますし、わたし自身、文章を書くのは得意ではありませんし本もあまり読みません。気楽にやっていただければ結構です」
「あまりっていうか、まったく読まねえじゃん」と、隣の席で泉がボソッととんでもない言葉を呟いたもんだから、僕はそのとき、危うく心臓が止まりそうになった。
さいわい声が小さかったから、誰にも聞こえていないみたいだったけど……。
泉自身にしてみれば、それは単なるツッコミで、悪気があって言ったわけではないのだろうけど。他の先輩たちがいる中で、ちょっとは状況を考えろよ。
泉は「自分は圭太のストッパー役だ」とか偉そうに言ってたけど、むしろ僕がストッパー役にならないといけないんじゃないか、これ。
「それじゃあさっそく、新一年生に自己紹介をしてもらいましょうか。じゃあ端のきみから」
「うえっ? は、はいっ!」
指名されて、僕は慌てて立ち上がった。余計なことばっかり考えていて、自己紹介のことなんて頭から抜け落ちていたから、正直かなり焦った。
ちくしょう、泉のせいで。
「出身中学と所属クラス。それに文芸部でどんなことをやりたいかを語ってみてください」
「え、えっと。一年三組の相澤圭太です。揺雲中出身。僕が文芸部に入りたいと思った理由は、中学の頃に伊藤正美先生の本を読んで感銘を受けて、僕もあんな小説が書けたらいいなあって、憧れを持ったからです」
「相澤くんは、小説家になりたいの?」
僕の言葉を受けて、伊勢原先輩が柔らかく微笑みながら僕に問いかける。
「いえ、そこまで具体的には考えていませんけど。文才もありませんし……。書けてラノベくらいかなって」
「ライトノベルが一般小説と比べて簡単に書けるものだとは思いませんが……伊藤先生はライトノベル方面にも造詣が深くいらっしゃるので、実際に会ったとき、いろいろと有意義ななお話が聞けると思いますよ。うちの部員にも、小説家志望で、毎年新人賞に作品を応募している人は何人かいます。文才がないと言って最初から諦めてしまわずに、その気があるなら、前向きに取り組んでみるのもいいと思いますよ」
「は、はい……。ありがとうございます」
すごい。まるで事前に準備していたかのような、的確な返答が即時的に返ってくる。
たったこれだけのやり取りで、伊勢原先輩の頭の回転の速さが如実に感じ取れる。
「はい、じゃあ次」
今度は半ば投げやりとも言えるぶっきらぼうな口調で先輩が泉に促した。
照れ隠しなのだろうか。顔見知りというのもあるのだろうけど、えらい態度の違いようだ。
泉もこれまたぶっきらぼうに立ち上がる。
「平林泉。圭太のクラスメイト。同じく揺雲中出身。親友の圭太が文芸部に入るってんで、俺も来ました」
「……それだけ?」
「はい」
「入部する意志はあるんだよね?」
「ありますよ」
一応、他の先輩部員たちが見ている手前、泉も伊勢原先輩に対して敬語を使おうとはしているみたいだった。
「ならいいけど。文芸部で、何かやりたい活動とかあるの?」
「そうっすねー。強いて言えば、俺も圭太みたいに小説を書いてみるのもいいかもしれないっすねー」
「どんな小説を書きたいの?」
「官能小説っす」
その瞬間、部室の空気が凍りついた。
あたりまえだ。女子部員が大多数を占めるこの教室で、新入生の男が「官能小説を書きたい」なんて言い出したら。
で、泉も自分でおかしなことを言っているうちに何やらよくわからない方向にヒートアップしてきたみたいで、
「そう、俺が書きたいのは官能小説。淫らに乱れた性の美学を、筆舌をもってあますとこなく艶やかに表現したい。……だが残念なことに、俺には根本的に足りていないものがあります。それは性の知識と経験です。だから俺は崇高な芸術作品を完成させるため、先輩方部員一同の体験談をつまびらかにお伺いしたい。嬉し恥ずかし初体験の想い出を荒息吐息の息遣いが聞こえるくらい情緒豊かに語っていただき、あることないこと脚色しまくって一冊の本にします。それが俺の夢です」
「――あっそう」
周囲の部員たちがドン引きして顔色を青ざめさせているなか、伊勢原先輩は表情も変えずに平然と受け流した。
「わたしたち文芸部では毎年一冊、各部員の作品を掲載した会誌を発行しています。好きなものを好きなように書くのは自由ですが、そこに載せるものは不特定多数の方に見せられる体裁のものを書くようにしてください。公序良俗に反するものは、くれぐれも差し控えるように」
「へいへい、かしこまり」
泉はそう言って座った。
平林泉。すごい奴だ。恐れを知らない。――というか、わけがわからない。
「あんなこと言って、どこまで本気なんだよ」
僕が耳もとで囁くと、泉はにやりと笑ってこう言った。
「一〇〇パーセント本気に決まってるだろ」
「それじゃあ……次の方。えー、そこの、あなた」
呼ばれて、僕たちの後から入ってきた、例の女子生徒が「はいっ」と声を裏返らせながら返事をして立ち上がる。
「一年五組、若岡由美です。南中出身。あたしが文芸部に入りたいと思った理由は……そのっ」
やたらと緊張している様子だ。人見知りしやすいタイプなのだろうか。
確かに見た目もあまりはきはきしている様子ではなく、小柄でおとなしそうな感じだった。
童顔でかわいらしい顔つきに、肩までかかる長髪がよく似合っている。あくまでルックスのイメージだけで語ってみれば、清楚な文学系少女ってところだ。
それでも、友達と連れ立ってではなく一人で体験入部に来たのだから、よほど文芸部に思い入れがあったのかもしれない。
――伊藤先生の大ファンとかならわからなくもない。
しかし、そんなイメージに反して、若岡さんはとんでもな言葉を言い放った。
「あたしが文芸部に入りたい理由はっ……。い、伊勢原先輩がいるからですっ!!」
――時間が止まったかのように思われた。
部室内にいたほとんどの生徒が、彼女の言葉の意味を捉えられていなかっただろう。
「えっ、なに?」と、誰もが尋ね返したかったに違いない。
若岡さんは、緊張してたびたび声を詰まらせながらも、言葉を紡ぐ。
「入学式の日に初めて伊勢原先輩をお見かけしたときから、ずっと先輩とお近づきになりたいと思っていました。だからあたしは小説が書きたいとかそういうのじゃなくて、ただ先輩の近くにいられたらそれでいいんです」
「ああー、それは……どうも、ありがとう」
さすがの先輩も、こればっかりはどう返事をしたものか考えあぐねているようだった。
不意に泉がドンと僕の脇腹を肘で突いて言う。
「おい、思わぬところからライバル出現したな」
いや、本当に思わぬところだよ。予想外すぎるよ。まさか男子ですらないとは。
というか、僕は彼女を恋敵として認めてしまっていいのだろうか。もし認めてしまった場合、果たして彼女に勝ち目はあるのだろうか。
「うん。それじゃあ、同じ部員として仲良くやっていこうね」
なんとか無難な返答をひねり出したらしい伊勢原先輩は、軽く咳払いをしてそう言った。
「ところで若岡さんは、好きな作家さんとかいないの?」
「いませんっ」
「好きな本のジャンルとか」
「特にありません!」
「そう……」
伊勢原先輩は悩ましげに頭を抱えた。これはある意味、泉以上の難敵が現れたとか思ってそうだ。先輩だけじゃなく、この部室にいる誰もが。
「強いて言うなら……」
若岡さんは恍惚に表情を歪ませ、どこか遠くを見るような眼差しで天井を見上げながら言う。
「あたしと伊勢原先輩とのラブロマンスを書いてみたいです」
「じ、実名はやめてね」
引き攣った笑みを浮かべて、伊勢原先輩が言えたのはそれだけだった。
恋愛小説を書くのは大いに結構。しかし実名を出してしまうと、それはストーカー行為とほとんど変わらない。
しかしこの若岡さんのことだ。伊勢原美優奈という名前を一文字変えて、伊勢崎美優奈とかにしそうな雰囲気はある。
というか、伊勢原先輩が卒業したらどうするんだろう。そんな疑問が頭に浮かんだ。
「伊勢原先輩が卒業したら、そのときは……」
若岡さんは自信たっぷりに言った。
「あたしも卒業します」
――できねえよ。
「とにかく、残り時間は雑談タイムね。お茶とお菓子は自由に飲み食いしていいから、一年生は遠慮せずにどんどん先輩と話をしにいってね」
「はいっ!!」
威勢よく声を上げたのは、言うまでもなく若岡さんだった。
彼女がどの先輩に積極的に話しかけていこうとしているかは、わざわざ口にせずとも、誰の目にも明らかだった。
☆
「平林くんさあ、さっきの自己紹介のアレ、冗談だよね?」
ふと僕たちのほうにやって来てそう尋ねたのは、最初にお茶を勧めてくれた先輩だった。言動にどこかふわふわした感じのある、優しそうな人だ。聞くと、どうやらこの人が副部長で川辺美香さんというらしい。
「冗談っすよ」
泉は調子よく笑いながら言った。
「そうだよね、あははー。みんなビックリしちゃってたよ」
「さっきは一〇〇パーセント本気だって言ってましたけど」
僕が言うと、泉はまたしてもニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「あれも冗談だ。敵を欺くにはまず味方からって言うだろ?」
いったい誰を敵に見立てているつもりなのか。欺いたところで何の得があるのかは知らないが、これ以上無駄なツッコミを入れる気も起きず、黙っていた。
「泉は昔からそういう奴なんだよ」
伊勢原先輩が腕組みをしながらやってきた。その腰もとにはぴったりと若岡さんがへばりついている。
くそう、いいなあ。羨ましいなあ。女子同士だとあんなこともできちゃうんだからなあ。
ああ、僕も女の子に生まれたかったなあ。そうしたらあんなふうに周りの視線を気にすることなく先輩とべたべたできたのに。
ちくしょう。僕も生まれ変わったら女の子になりたい。いやむしろ、今すぐなりたい。
「平林くんは美優奈と小学校から同じだったんだっけ?」
「そうっすよ」
「というか、平林勇太の弟だよ。知ってるでしょ、うちのクラスの」
「あー、やっぱりそうなんだ。苗字が一緒だから、まさかとは思ってたけど」
ここでも遺憾なく立場上の優位性を発揮する泉。
クラスメイトの兄弟姉妹というのは、存外とっつきやすいものだ。共通の話題にできる存在がいるというのは大きい。
そうでなくても、伊勢原先輩と泉は、小学校のときから顔見知りの幼馴染だしね。
「昔から長い付き合いだから調子に乗っちゃってね。言っとくけど泉、部内でタメ口利いたりしたら、ひっぱたくからね」
「はーいはい。わかってますよ、伊勢原先輩」
翻って、僕には先輩と話せるような共通の話題は何もない。
今はただ泉についてのとりとめもない雑談を、ただ傍らで黙って聞いていることしかできなかった。
――このままではまずい。
僕は焦りを感じていた。
自己紹介は無難にこそ済んだものの、先輩たちに与えたインパクトで言うと、新入生三人のうちで僕が一番弱い。
――いや、ほかの二人が強烈すぎるのがいけないんだけど。
実際問題、みんな泉に興味津々で、僕なんかすでに蚊帳の外の状態だし。なんとかして自分をアピールしないと、最悪、顔を覚えてもらえない可能性すらある。次に文芸部室に来たときに「君、誰だっけ」とか言われるのはさすがにつらい。いったいどうすれば……。
「あ、あのっ!!」
思いもよらず大きな声を張り上げてしまい、自分自身でびっくりしてしまう。
それまで泉につきっきりだった部員たちの視線が、一斉に僕のほうへ注がれたのがわかった。
「どうしたの、相澤くん?」
伊勢原先輩が、不思議そうな顔をして僕に尋ねる。
僕は困惑して、倒れそうになるのをなんとかこらえながら、言葉を発する。
「あの、実は僕、小説をすでに書きはじめてて……」
脈絡も何もあったものじゃない唐突な自己アピールに、自分自身で死ぬほど申し訳なくなって、言葉尻もだんだんとか細くなっていく。
そんな僕に向けて、伊勢原先輩は優しく微笑みかけながら、
「どんな小説を書いてるの?」と聞いてくれた。
「ど、どっちかって言うと、ラノベみたいな感じなんですけど。先輩たちにも見てもらって、アドバイスをもらいながら続きを書こうかと……」
「いいよ。今持ってるの? プロットある?」
「え、プロット?」
カバンの中から例の小説ノートを取り出そうとしたところで、僕はぱたりと動きを止めた。
プロット? プロットって何だ?
「プロットは作っといたほうがいいよ。自分で使わなくても、全体のあらましが掴めたほうが、読み手側にとっては理解しやすいからね。まあいいや。とにかく書きかけのはあるんだよね。見せてもらっていい?」
「あ、はい。すいません。えっと、まだ第一章しか書けてないんですけど。これ読んだらとりあえずは話の流れはわかるかな、と」
「ふんふん。どれどれ?」
ノートを受け取って、開いたページに目を落とす先輩。僕はドキドキしながらその表情をじっくりと観察していた。
「美優奈、本読まねえのに、これくらいは読むんだな」
「敬語使いなさい。そりゃあね、部員の書いたものくらいちゃんと読んで評価するよ」
僕のことをすでに部員扱いしてくれているその言い方が嬉しくて、なんだか照れくさく感じてしまった。――我ながら単純だと思う。
はじめのほうはニコニコと微笑ましげに読んでいた先輩の顔が、しかしあるとき、ふと変化を見せたような気がした。
それはとても小さな変化ではあったけれど、少し驚いたような、戸惑ったような表情になって、憂鬱げに眉をひそめた。
端的に言うと、顔から笑顔がなくなった。
いったい先輩はどういう感想を抱いたのだろう、と思っていると。先輩はまたすぐに笑顔に戻って――なぜだろう。それはとても作りものくさい無理な笑顔に見えたけれど、
「うん、なかなかいいと思うよ」
てなことを言った。
「主人公が新たな人生に生まれ変わって、いろいろ体験していく話だね。生まれ変わり自体はフィクションでは割とよくある設定だけど、上手く書ければ面白い話ができるんじゃないかな。初めて書くにしては文章も読みやすいし、このまま書き進めていけば良い作品ができると思うよ。ただ、こういうのは話の組み立てが難しいジャンルでもあるから、登場人物とか設定、ストーリーなんかを簡単にまとめて、やっぱりプロットを先に作っちゃったほうがいいかもしれない」
「あ、ありがとうございます」
その的確な指摘に感激して、僕が頭を下げると、先輩の顔からまた笑みが消えて表情が少し曇った。
「相澤くん。これ、泉にも見せてあげていい?」
「え、なんでですか?」
僕はびっくりしてその言葉に尋ね返す。
「あ……いや、ね。相澤くんがこんなに上手く書いてるの知ったら、泉も競争心起こして何か書きはじめるかもしれないじゃない?」
「ええ、まあ……。それはいいですけど」
自分の作品を人に見せるのは恥ずかしいけど、文芸部に入った以上、そういうことも言っていられなくなる。
僕は先輩から返してもらったノートを、そのまま泉に手渡した。
泉は最初「なんだ?」というような顔をして僕のノートを受け取ったけど、そこに書いてあるものを読み終わると、なにやら納得したような顔つきになって、「なるほどな」と呟いた。
「上手いじゃん」
「ああ、ありがとう……」
思いもよらぬ単刀直入の褒め言葉に、妙に気恥ずかしくなってしまう。
「これ、自分のアイディア?」
「もちろん。人からパクったりしないよ」
「この先の話、どうなるんだ?」
「いや、そこまではまだあんまり考えてないんだけど」
「そっか。……続き、楽しみにしてる」
そんなことを言われて、僕はなんだか天にも昇るような気持になってしまった。
今まであまり人から褒められたことがなかったからかな。
たとえ泉からであっても、たまらなく嬉しかった。
「わたしも読ませてもらっていい?」
副部長の川辺さんがそう言いながら手を伸ばす。もちろん僕は喜んでノートを差し出した。
☆
新しく文芸部に入部することになった僕らと同じ一年生の若岡さんとしばらくあいさつ程度の立ち話をしてから、泉と一緒に部室を出た。
今日は実質的な活動はないらしく、僕たちが帰る頃には上級生たちも半数程度が帰ってしまっていた。
「まさか圭太が既に小説を書きはじめていたとは知らなかった。ずるいぞ、抜け駆けは犯罪だ」
「ずるくないよ。泉も書けばいいじゃない。せっかく文芸部に入ったんだしさ」
「ああ、書くさ。とびきりエロいのを書いてやる」
僕はふとエロい小説をまじまじと読んで赤面している伊勢原先輩の姿を想像して、ちょっと淫猥な気持ちになった。
いや、読まないかな。普通の小説すら滅多に読まないって先輩自身も言ってたし。よもや官能小説なんか……。
つーかそれより、本気で官能小説を書くつもりなのか、こいつは?
「それにしてもよ、圭太。あの小説、本当に自分で考えて書いたんだよな?」
泉が繰り返し僕に詰め寄る。
「失礼だな。正真正銘、自分のアイディアだよ」
「おまえが自分であの内容を考えついたとは、俺にはとても信じられん」
「ま、実は僕には小説を書く隠された才能があったかもしれないね」
冗談まじりに得意ぶっておく。まだ第一章を書きはじめたばかりだし、ここで慢心してはいけないことはわかっているけど、こうやって人から羨まれるくらいに面白いと思ってもらえるのは素直に嬉しい。
「それにしても、伊勢原先輩がアレを読んだとき、少しおかしな顔してたような気がするな。泉、気がついた?」
「ん? ……ああ」
やっぱり、泉も気がついてたんだ。あのとき先輩が見せたあの表情は、必ずしも面白い小説を目にしたときに見せるようなものではなかった。
なんだかひどく驚いて、戸惑っているみたいだった。あれはいったいなんだったんだろう。
――もしかして、僕の小説が予想外に面白くて、未知の才能を感じてしまったかったから、とか?
いや、テーマ自体はありふれたものだと伊勢原先輩も言ってたし、文章力も初心者レベル。こんなふうに考えていては、碌なことにならないのは必定。第二章の半ばくらいでストーリーが立ち行かなくなって、筆を折るのが落ちだ。
僕はあくまで謙虚な態度を忘れずに。他人の批判はおとなしく受け入れるようにしないと。
「考えすぎなのかな」
僕がそう呟いたそのとき。
泉が「あ」と短い声を出した。
指さしたほうに目をやる。校門のところに、伊勢原先輩が立っていた。
――背の高い男の人と一緒に、二人で。
まだ距離があるので話している内容までは聞き取れなかったけど、何やら楽しそうに喋りながら笑い合っている。
あれは、いったい誰なんだろう。やけに伊勢原先輩と親しそうに見えるけど。
「あれは、俺の兄貴だ」
僕があれこれとよからぬ思考を巡らせているうちに、泉が平然と言ってのける。
「泉のお兄さん?」
そう言えば先輩、言ってたっけ。泉のお兄さん――平林勇太さんと同じクラスだって。クラスメイト同士なら、仲良く話をしていておかしなことはないけど……。
それにしても、今、伊勢原先輩の見せているあの笑顔。文芸部室で川辺先輩たちに見せるものとも、また別種のような気がする。
何というか、一切遠慮がなくて、完全に心を開いているような。本当に、ただのクラスメイトなんだろうか……?
「うーむ、これは見過ごせない現場に出くわしましたね」
いきなり僕と泉のあいだに若岡さんがぬっと入り込んできて、訝しげな顔をしてそう言った。
そういえば彼女も先輩に執心なんだっけ。というか、どっから出現したんだ。
「若岡さん、いったいいつから……?」
「下の名前で呼んでくれていいですよ。由美ちゃんでいいです」
自分でちゃん付けかよ。――というか、僕たちに対しても敬語を使うのか。
同い年なのに。ちょっと変わった子だな、と思った。今さらではあるけど。
「それにしても、あの殿方、伊勢原先輩とどういう関係なのでしょう。やたら親しそうですが」
「いや、どうって……。ただのクラスメイトなんじゃないの?」
「本当にそうでしょうか。あれを見てください」
言われて、再び先輩たちのいるほうに目を向ける。視線の先では、男の人――平林勇太さんが、伊勢原先輩の頭に手を乗せ、ぽんぽんと軽く叩いていた。
先輩は気恥ずかしそうに笑いながら、勇太さんの脇を肘で小突き返す。
「普通の女子は、たとえクラスメイトでも軽々しく頭をさわらせたりはしません。特に伊勢原先輩ほど品のある方ならなおさら。あれは特別な関係にあるのでは……?」
「そうなのか?」
言いながら、泉が若岡さんの頭をぽんぽんと叩いた。若岡さんは「ぎゃっ」と驚いて声を上げ、一歩飛びのく。
「な、な、な、何してるんですか! 軽々しく触っちゃダメだって、今言ったところじゃないですか」
「いや、実践だよ。本当にそうなのか、俺たちには女子の気持ちはわからないからさ」
泉は満足げにうなずき、
「いい反応だ。官能小説のネタが一つ増えたぜ」
「か、勝手に人の反応を官能小説のネタにしないでください!!」
でも確かに、若岡さんの言うことが正しいなら、伊勢原先輩は泉のお兄さんとかなり親しい間柄にあるということになってしまう。
あるいは恋人同士の関係だったり……?
泉は以前、伊勢原先輩には恋人はいないし、恋人を作る見込みもないだろうと言っていた。しかし、その言葉が真実であるという保証はどこにもないのだ。
もし、あるいはお兄さんと伊勢原先輩の関係を守るために、泉が僕に嘘をついているのだとしたら……? その可能性だって、十分あり得る。
「言っただろ、小学校が同じだって。家も近所だしな。付き合いが長くて、仲が良いんだよ」
まるで先手を取って言い訳をするかのように、泉が突然そう言った。
だけど僕は、その言葉を素直に信じることはできなかった。
「泉……、僕に何か嘘ついてない? 伊勢原先輩のことで」
「嘘はついてないよ」
僕の問いに、泉は即答してかぶりを振った。「ただ……」
「ただ?」
「隠しごとはしてる」
驚きの発言だった。
まさか隠しごとをしていることを隠さないとは。確かに性格は正直すぎるほどに正直なようだ。この分だと、なるほど泉は嘘をついていないのかもしれない。
しかし――、
「隠しごとって?」
「言わねーよ。隠してるから隠しごとなんだ」
ダメか。しかし泉自身も伊勢原先輩とは付き合いが長いのだ。僕たちの知らない先輩の一面を、山ほど知っているに違いない。
あの二人の関係性や、話している内容についても、おそらく手に取るようにわかっているのだろう。その上で、泉は先輩について隠しごとをしている。
僕たちに話せないような先輩の秘密を何か知っているのだ。
――知りたい。
どうしても先輩の秘密を共有したいという想いが、腹の底からせり上がってきた。
「隠しごとをするなんて泉らしくないな。というかそもそも、なんで隠しごとをしてることを僕たちに教えるんだよ」
「中途半端に隠そうとするとボロが出るからな。隠したい秘密があるってことをはっきり先に明示しておけば、おまえらも無闇に詮索したりしないだろ」
なるほど、筋が通っている……ような、通っていないような。
そうは言っても、隠しごとがあるとわかった以上、知的好奇心はどんどん大きく膨れ上がっていくばかりだ。
そしてそれは理性ではとても抑えられるもんじゃない。ことに先輩のこととなると、特にね。
「言っとくけど、俺は別に好きで秘匿主義に徹しているわけじゃないからな。美優奈が秘密にしておきたいって言うから、協力してやってるだけだ。これはあいつの問題だからな。それを人に打ち明けるかどうかは美優奈が決めることで、俺じゃない。どうしても知りたかったら、本人に直接聞いてみたらいいんじゃないか。とにかく、俺からは何も言えん」
そうして泉は最後、ぽつりと呟くようにこう言い足した。
「大切な人のための嘘や秘密には正当性があるんだよ」
「大切な人?」
大切な人って、伊勢原先輩のことだろうか。
伊勢原先輩は、泉にとっても大切な人って位置づけなのだろうか。
――わからない。わからないことだらけだ。先輩の秘密っていったい何だ。
そもそも、どうして泉はそれを知っているんだ。人には言えない秘密をその二人にだけは話してもいいと思えるような、それほどの信頼関係を築いているのだろうか、伊勢原先輩は。
そして、そこに恋愛関係のようなものは、本当に存在していないのだろうか。
できることなら、教えて欲しい。――誰か!
☆
その日、僕は釈然としない気持ちのまま家に帰り、鬱憤を晴らすかのようにノートに小説を書き殴った。
主人公が生前感じていた、人生に対する虚無感を表現するパートだ。
これまで生きていて、良いことなんて一つもなかった。
誰にも認められず、誰からも褒められることのない、薄汚い灰色の人生。
自分自身でさえ自分を認めてやることができず、だから他人を信用することもせず。
好かれもせず、尊ばれもせず、嘲られ、虐げられ、抑圧に押し潰されるまま苦しみもがく日々。
人並み以上にできることなど一つもない。優越感を得られもせず、ただ自己愛だけが空虚に積み上げられていく。
愉快に生きる人々、幸運を掴み取る人々。嫉妬と怨恨に自尊心を切り刻まれる。
報われない人生、報われない感情。
こんな想いをし続けるならいっそ、こんな世界、消えてしまえばいいのに。
そこまで書いて、僕はハッとした。
ダメだ、こんな書き方はいけない。
僕が書こうとしているのはライトノベルなんだ。意味もなく雰囲気が暗いものになってしまっては、読み進める気も起こらなくなる。
たとえ後ろ向きな内容でも、もっと明るいタッチで書かないと。読んでいて楽しいものでないと、ライトノベルとしては失格だ。
僕は慌てて消しゴムを握った。
それにしても――、僕は一人首をひねった。どうしてこんな暗い書き方をしてしまったのだろう。昨日まではこんなことなかったのに。
もしかして、今日伊勢原先輩が男の人と仲良くしているのを見てしまったから?
そして、泉が先輩の秘密を何か知っていて、それを僕たちに隠そうとしたから?
確かに、そのことで僕が受けたショックは思った以上に大きかった。
伊勢原先輩と泉の二人から同時に裏切られたような――騙されたような気分になったのは、どうしても否定できない。
そのせいで僕の感情が負の方向へ傾いていたのは紛れもない事実だ。それでも、まさか小説の文体にこんな顕著に現れてしまうなんて……。
よく現代文のテストなんかんで、文章を読んで作者の考えを答えなさいっていう問題が出題されることがあるけど、その問題の意味が今になってようやくわかったような気がする。
小説の中身は、作者の精神状態に驚くほど大きく左右される。
いや、むしろそれを制御して初めて、ちゃんとしたものが書けるということなのかもしれない。
「気をつけないとな」
僕はペンを置き、大きく背伸びをして、ベッドの上に横になった。
無理なものは無理。こんな精神状態のときに、楽しい話なんて書けるわけがない。
いつかまた楽しいことがあったら、今日の分を取り返すつもりで、めいっぱい書いてやろう。
そんなふうに思ったのだった。
……憂鬱だな。