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第4章  寝言に返事をしてはいけません

 

 

 

 驚いたことに、若岡さんは次の日さっそく小説を書いて持ってきた。

「まだ第一章しか書けてませんけど」

 と、彼女は言っていたけど、一日で一章が書けるのもすごいよ。

 まあ、一章あたりの頁数がどれくらいになるかは、作者や作品によってそれぞれだけど。

「ふ、ふーん。どれどれ?」

 少し引き気味になってノートを受け取る伊勢原先輩。表情は若干こわばっている。

 早くも若岡さんに苦手意識を持っているみたいだ。その気持ち、痛いほどわかります。

「えーと、読む前に一応聞いておくけど、小説のジャンルは何だったっけ?」

「はいっ、恋愛小説です!」

 目を輝かせて、嬉しそうに答える若岡さん。漫画的手法の表現なら、瞳の中にハートマークが浮かんでいたことだろう。

 この時点で、僕も小説の中身にだいたいの察しがついてしまった。

 恐る恐るといったふうにノートを開く伊勢原先輩。それを持つ手はかすかに震えていた。

 そして読み始めて二秒もしないうちに、表情が悲痛に歪んだ。あれは――ドン引きしてる顔だ。間違いない。

「あの……これ、開始二行ですでにあたしと由美ちゃんがキスしてるんだけど、これは……?」

 二行で!? それは急すぎる。逆に、一行目がどんな出だしで始まってるのか気になる。

「だって、インパクトの強い重要なシーンから始めるのは、小説の基本じゃないですか!」

「それはそうなんだけど……」

 パラリとページをめくって、またもや絶句する伊勢原先輩。額から、冷や汗が流れ落ちる。

「あの……冒頭部分から早くも由美ちゃんがあたしに告白して、あたしがOKしちゃってるんだけど、これは……?」

「そうしないと、お話が始まらないじゃないですかー!」

 そこから始まるお話なのか。それはまた随分ディープな恋愛小説になりそうだ。

 伊勢原先輩は、ぶんぶんと大きくかぶりを振る。

「いやいやいや、告白するならするで、そこに至るまでの経緯もちゃんと書かないと。そもそも女の子同士で恋愛するのが、まず普通じゃないよね。それなら、そこに生まれる葛藤とか、複雑な想いなんかをちゃんと文章にして……ていうか――」

 先輩は、パンと勢いよくノートを閉じて、それを若岡さんの眼前に突き返した。

 

「実名を使うなって言ったでしょう!!」

 

                                  ☆

 

「見事なノリツッコミだったぞ、美優奈」

 帰り道。平林兄弟が伊勢原先輩と一緒に帰るというので、僕も途中までだけど、幸運なことに混ぜてもらえることになった。

 そのときに、泉が茶化すように言った。

「ノリツッコミじゃない!」先輩は憮然として返事をする。

「へえ、そんな変な子が文芸部の一年生に入ったのか。面白そうだな、俺も見に行ってみるか」と、今度は勇太さんも冗談っぽく言う。

「笑いごとじゃないよ。あの子といると、こっちの頭が痛くなってきちゃう」

「で、おまえとしてはどうなんだ、その娘は。タイプなのか?」

「へっ、タイプ!?」

 勇太さんの言葉に、驚いて声を裏返らせたのは、僕だ。

「タイプって何ですか? 伊勢原先輩って、女の人が好きなんですか?」

 そういえば――先輩の前世は男の人だったんだ。もしもそのときの感性が今の先輩の中にも残っているなら、女の人に対して恋愛感情を抱いてしまうのも、納得できない話じゃない。

「ああ、そういやこの話は圭太にはまだしてなかったな」

 泉が、余裕ぶった態度で鼻を鳴らしながらそう言う。

 そういやって……先輩の恋愛対象がどうとか、僕にとってはものすごく重大な話じゃないか。

 泉は、僕が伊勢原先輩のこと好きだって知ってて、そんな重要なことを黙っていたのか。

「美優奈はなあ、男よりも、女のほうが好きなんだよ。……相対的にだけどな」

「相対的?」

「昨日聞いただろ。美優奈の前世は男だったって。そのときの感覚が、今でも残ってんだとよ」

「そ、そんな……」

 僕は愕然として肩を落とす。伊勢原先輩が男の人と付き合わないのは、そういう理由だったのか。

 外的要因だったならまだしも、本人の気持ちの問題となると、それはもうどうしようもないことじゃないか。

「でも、前に泉、言ってたよね。先輩が女子の人に告白されたとき、走って逃げたって。それは……」

「それはアレだよ。体面的な問題だよ。同性愛者ってやっぱ、変な目で見られるだろ。それがイヤで、美優奈は女と付き合わないんだな。せっかく今まで完全無欠の優等生を演じてきたのに、些細な性倒錯のせいで、華麗な経歴に傷がついてしまう」

「じょ、冗談だからね、相澤くん。こんなヤツの言うことを真に受けちゃダメ!」

 伊勢原先輩が、何やら焦った様子で泉の言葉を否定する。

「別にあたしは女の子が好きなわけじゃないから。恋愛対象はちゃんと男。勘違いしないで!」

「あれぇっ、そうなのか?」

 勇太さんが、目を丸くしてあっけらかんとした声を出した。

 確かに、傍から見た感じ、伊勢原先輩の勇太さんに接する態度は、遠慮みたいなものが一切なくて、異性に対するものというよりは、仲の良い友達といった印象を受ける。ただそれは、本人の気持ちっていうより、昔から顔見知りだからって要因が大きいような気がするけど。

 その気持ちが、いつか恋心に変わるときが――来るのだろうか、果たして。

 先輩は言葉を続ける。

「でも……男の子と付き合いたいかって言われると、なんか違う。抵抗感があるっていうか、それは違うだろっていう感じがして」

 そのとき、不意に先輩が見せた悲しげな表情――僕の目に映った先輩は、その綺麗な顔にひとかけらも似合わないような、陰鬱な陰を落としているように見えた。

「あたしは、結局のところ、誰も好きになれないのかもしれない」

 先輩は、ぽつりと呟くようにそう言って、小さく顔をうつむけた。

 

                                   ☆

 

 困ったことに、筆が進まない。

 家に帰って机に向かいながら、僕は頭を抱えていた。

 昨日はあれだけスラスラと書けた文章も、今日は奥歯に引っかかったみたいに、まるで出てこない。

 それも当然だ。昨日までは、ただ小中学生の日記のようなものを淡々と書いていればそれでよかったのだから。

 今日の執筆内容は、主人公の澪奈が高校生になって、前世の自分や、生まれ変わったことについて深く考え、実際に行動を起こす指針を定める段階のところまで来ている。

 言ってみれば、現時点で伊勢原先輩の置かれている立場そのものだ。

 一応、物語のゴール地点は、澪奈が前世で住んでいた土地へ足を運び、そこで妹と出会うというシーンを落としどころにしようとはしている。

 あたりまえだよね。そうしないと、現実の伊勢原先輩の望みは叶わない。

 だけど、どうやってそこを目指せばいい?

 主人公澪奈の境遇は、おおむね今の伊勢原先輩と同じになっている。みんなから好かれ、愛されて、何一つ不自由のない環境に置かれてはいるけれど、前世の記憶を持ち合わせているばっかりに、男性と付き合うことができず、彼氏はいない。

 生まれ変わった記憶を、両親含め、周囲の人間にはひた隠しにしている。

 問題なのは、その前世の記憶が曖昧で、ほんのわずかしか残っていないということだった。

 事実、現在の伊勢原先輩もそうなっているらしいし、物語的にも、前世の記憶がまるまる残っているようでは、すぐに目的が達成できてしまうから面白味がない。

 いや、前世の記憶を保持したまま人生をやり直すっていうストーリーも、それはそれで「強くてニューゲーム」みたいで面白そうではあるんだけど、今の伊勢原先輩の置かれた状況とは違ってきてしまうし、妹に会いたいという彼女の願いも叶えられないから、そっちに進むのは好ましくない。

 やはり僕が自分なりの手腕で、答えを導き出さなきゃいけないらしい。

 ――でも、どうやって?

 限られた記憶の断片。自分の名前も、通っていた学校の様子も思い出せないかすかな記憶。

 そんな曖昧糢糊な記憶の残骸から、どうやって答えを導いていけばいい?

 僕はひとまず筆を置き、明日の部活に備えることにした。

 明日は、『僕と先輩の恋愛諸事情』の作者である伊藤正美先生が、顔を出してくれるという。

 先生に聞けば、何かいいアドバイスを貰えるかもしれない。

 そんなふうに期待したのだった。

 

                                  ☆

 

 実際に目にした伊藤正美先生の容姿は、僕のイメージしていたものとは少しだけ違っていた。

 なんとなく、お年を召した淑女といった感じの風貌を想像していたのだけど、文芸部室に現れたのは、まだ二十代後半くらいと見られる、若くてそれなりにきれいな女性だった。

 考えてみれば当然か。先生の著作である『僕と先輩の恋愛諸事情』は、きわめて完成度の高い恋愛系ジュブナイルではあるけれど、枠組みとしてはライトノベルに数えられる。今どき、ライトノベル作家になろうって人は、若い人ばかりなのかもしれない。

 伊藤先生が文芸部室に入ってくると、伊勢原先輩は律儀に話を止めて立ち上がり、丁寧にお辞儀をしてからこう言った。

「伊藤先生、本日もお忙しいところをご足労くださいまして、ありがとうございます。こちらの席へどうぞおかけください」

 その柔かな物腰は、まさしく気品溢れるお嬢様といった様子で、どう見ても一般の高校生――しかもプライベートでは男口調で話しているような人には見えなかった。部員たちは、泉を除いた誰しもが(特に若岡さんが)その完璧な振舞いにうっとりと魅入っていた。

 伊藤先生が腰を下ろしたのは、普段は部長の伊勢原先輩が座っている、上座にあたる席だった。

 先生は持参した荷物を一旦脇に下ろすと、再び立ち上がって、あいさつ口上を述べた。

「こんにちは。今日は新年度になって初めてお邪魔させていただいたので、新入生の方もいらっしゃるんですね。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。もしかしたら先輩たちから聞いているかもしれませんけれども、わたしのことはおそらくご存知ないと思いますので、自己紹介と挨拶をさせていただきたいと思います」

 そんなことはない、と僕は一人でひそかにかぶりを振った。

 先生の書いた『僕と先輩の恋愛諸事情』は、僕が今まで読んだどんな小説よりも心に残った作品で、伊藤先生はまぎれもなく僕の一番尊敬している作家先生なのだから。

「わたし、ささやかながら小説家のお仕事をさせていただいております伊藤正美と申します。実を申しますと、わたしもこの霧虹丘学園の卒業生でして、懐かしさからこの文芸部に度々出入りをさせていただいております。文芸を愛する皆さんの助けになればと思っていますので、遠慮せず、なんでもわたしに聞いてくださいね」

 やはり伊藤先生も、伊勢原先輩に負けず劣らず物腰の柔らかな人だ。きっと大変に育ちがよくて、教養深い人なんだろう。

「ありがとうございます」

 と伊勢原先輩は先生に向けてそう言ってから、「それじゃあ、新入生からも自己紹介しましょうか。プロの作家さんと知り合いになれる機会なんて、めったにないよ。えーっと、じゃあ、相澤くんから」

「は、はいっ」

 伊勢原先輩に名指しされて、立ち上がる。

「今年から入部することになりました、相澤圭太です。中学のときに、伊藤先生の『僕と先輩の恋愛諸事情』を読んで、自分でもこんな素敵な物語を書けたらいいなあと思って、文芸部に入部することを決断しました。今日はここで先生と直にお会いできて、とても嬉しいです。どうぞよろしくお願いします」

「まあ、そうなんですか。ありがとうございます、嬉しいです」

 僕が昨日の晩必死こいて考えてきた自己紹介の文言を聞いて、伊藤先生は嬉しそうに目を細めた。

「それじゃあもしかして、あなたも似たような恋愛経験をお持ちなの?」

「えっ!?」

 びっくりしてしまった。まさかそんなふうに尋ね返されるとは思ってもみなかったから。

 反射的に伊勢原先輩のほうに視線を送る。彼女は普段どおり平然と澄ました顔をしていた。

「はぁ……まあ」

「あなたも、書くとしたら恋愛小説を書いてみたい?」

「いや、そういうわけでもないんですけど」

「相澤くんは、ライトノベル方面に興味があるみたいなんです」

 伊勢原先輩が助け舟を出してくれた。「彼はとても熱心な性格で、もう一作目を書きはじめているんです。あとで先生にも見ていただけたらと思うのですが」

「まあ、それはすごいですね」

 伊藤先生は満足げにうなずく。なんとか僕の恋愛経験談義から話が外せたみたいでよかった。

「そういえば、あの『僕と先輩の恋愛諸事情』もライトノベルのレーベルから出してたわね」

「そ……そうなんです。だから僕はライトノベルが書きたくて……」

「相澤くんが文芸部に入ったのも、伊藤先生とこうして話ができるからなんだよね」

 違います、伊勢原先輩がいたからです――って言いたかったけど、もちろん言えるはずもない。

 確かに、今こうして伊藤先生と直に会ってお話ができているのは感激至極ではあるけど、先輩がいなかったら文芸部には入っていなかったと思う。

「じゃあ次、泉」

「へい」

 僕が着席し、泉が無作法に立ち上がる。

「相澤圭太の同級生、平林泉です。本には興味がありませんが、エロには興味があるので、官能小説を書いてみたいと思って文芸部に入部しました。ぜひ先生の大人な体験談をお聞きして、リアルな官能小説を書き上げてみたいと思います。よろしくお願いします」

「泉」

 伊勢原先輩が、それまで聞いたことがないような恐ろしく深い声音で呼びかけ、泉を睨みつけた。

「真面目にしなさい。初対面で失礼でしょう」

「いえ、いいのよ。伊勢原さん」

 意外なことに、伊藤先生は柔和な微笑を湛えながら、伊勢原先輩を諭すように言った。

「作家志望なら、それくらいの態度のほうがむしろ好感が持てていいわ。いえ、そうでないとやっていけないくらい」

 まあ、作家に奇人変人が多いとはよく聞く話だけれど。泉の場合は、それとこれとは別問題のような気がする。第一、作家志望でもないしね。

「はい、じゃあ次、若岡さん」

「はいっ!」

 泉が座り、若岡さんが勢いよく立ち上がる。

「一年二組の若岡由美です。あ、あの。わたしも、恋愛小説が書いてみたいと思い、文芸部に入りました」

「まあ、それは素敵ね。具体的には、どんな話を書いてみたいの?」

「それは……」

 一呼吸間を置いてから、若岡さんは胸を張り裂けんばかりに前へ突き出して堂々とこう言った。

「ガールズラブです! モデルが誰とは言いませんが、女の子同士の甘く切ないイチャイチャ物語を、文字にしてみたいと思っています! いえ、実はわたしももう書きはじめているんです!」

 うおお、やっぱりそれ言っちゃうのか。少しくらいオブラートに包んだりもしないんだ。

 それを聞いて、果たして伊藤先生はどんな反応を示すのかと、恐々として様子を窺っていると、意外にも嬉しそうにパンと両手を打って、

「まあ、それは素敵ね」

 ――マジで!? ガールズラブとかにも抵抗ないんだ。むしろ好感を持っちゃってるっぽい。さすがは作家先生だ。

「百合モノは一般の恋愛小説とは明確に区別されるべきものではありますが、今や大きなジャンルを構築しています。わたしもいつか書いてみたいですね」

 そうなんだ……。いつか書いてみたいんだ。僕も、伊藤先生の書いたガールズラブ小説なら読んでみたい気がする。

 それにしても、相変わらずこの二人の自己紹介はインパクトでかいな。これじゃあ、伊藤先生への僕の印象が弱いかもしれない。

 少なくとも、泉に対しては悪いイメージしか持ってないような気もするけど。しかし、あの二人にはどうやっても勝てる気がしない。

 僕は憂鬱な気分で、盛大にため息をついた。――どうすればいいんだ、これ。

 

                                  ☆

 

 結局、その日も文芸部の活動らしい活動はなく、新入部員の僕たちと伊藤先生の顔合わせということで、お茶を飲みながら和やかな雑談をしただけで終わった。まあ、プロの作家先生の話を聞くというのも、文芸部員にとっては非常に有意義な勉強だろう。

 部活終わりの帰りがけ、僕は伊藤先生のもとへと赴いた。

「伊藤先生、折り入ってお願いが」

「あら、何かしら。もしかして、書きはじめてる小説についてのアドバイス?」

「ええ、あの、それもあるんですけど……」

 僕は担いでいたカバンの中から、例の文庫本を取り出した。

 伊藤先生の著作――僕が中学生のころから何度も何度も読み返している『僕と先輩の恋愛諸事情』の文庫本だ。

 初版本ではないけれど、僕にとってはほかのどの本よりも大切な一冊だった。

「サ、サインください!」

 両手で本を差し出すと、先生は「ああ」と言ってにこやかに微笑んで、背表紙裏に慣れた手つきでサインをしてくれた。

「ありがとうございます。この本を読んでから、先生のことはずっと憧れていたんです」

「嬉しいわ、こんな身近に熱心なファンがいてくれるなんて。――それで、書きかけの小説っていうのは?」

「あ、はい。これなんですけど。今ちょっと行き詰まってて、先生にご教授願おうと」

「うん、ふむふむ。どれどれ?」

 伊藤先生は僕のノートを受け取ると、とても真剣な顔つきでそれをじっくりと読みはじめた。

 さすがは書き手のプロだ。読むときも一切の妥協を許さない厳格さを感じる。

「すごくいいと思うわ。これ初めて書いたの? あなたきっと才能あるわよ」

「ありがとうございます。……でも、最近ちょっと、筆が進まなくて」

「あら、そうなの?」

 先生は意外そうに目を丸くした。僕はことのあらましを説明する。

「なるほど。つまり主人公の澪奈ちゃんは、前世で住んでいた町に行って妹さんに会ってみたいんだけど、残っている記憶があまりにも少なすぎて、それが難しいということね」

「はい」

「それなら、もうちょっとたくさんの記憶が残っていることにしてはどう? 住んでいた場所を特定する手がかりになるような」

「それが、そういうわけにもいかなくて。自分に課せられた縛りっていうか、そういうのがありまして……」

「あら、そうなの。それは困ったわねえ」

 先生は、あごに手を当てて「うーん」とうなった。

 実を言うと、伊勢原先輩から聞いた「高台に学校のある、坂がちな海沿いの地方都市」というヒントをもとに、すでに候補地のあぶり出しを始めてはいる。けれど、該当する場所があまりにも多すぎて、特定には至らないのが現状だった。

「それなら、これから手がかりを増やしていけばいいんじゃない? ――推理小説みたいに」

「え、これからですか?」

 伊藤先生の意外な発想に、思わず目を丸くする。

「そうそう。手がかりになるものっていったら、やっぱり主人公、澪奈ちゃんの前世の記憶しかないわけでしょう? それなら、これから徐々にそれを思い出していってもらえばいいのよ。これって、やっぱりズルなのかしら」

「……なるほど」

 そうか。その発想はなかった。先輩の前世の記憶は今あるものがすべてで、これからそれが増えるなんて可能性は、微塵も考えていなかった。

 そうした展開なら、今の先輩の置かれた立場とは必ずしも矛盾しないし、ストーリーを思惑通りに推し進めることができる。

 しかし問題は、前世の記憶を取り戻すその方法だ。

 どうやったら先輩に、消えてしまった過去の記憶を思い出してもらえる?

「方法はいろいろあると思うわ」

 と、伊藤先生はこともなげに言った。「ふとしたきっかけで、何か思い出すかもしれないし、物理的な衝撃で、失われていた記憶が戻ることもあるだろうし、あるいは催眠術で前世の記憶を呼び覚ますって手もありかもしれないわね。あとは、えーっとねえ……」

 先生は、今度はこめかみに手を当てて小首をかしげ、可愛らしく考え込む仕草を見せた。

 催眠術か。それはちょっと現実でやろうとすると、敷居が高いような。

「わたしだったら、一番身近な『夢』って方法をとるかな」

「夢……ですか」

「そう、夢。夢の内容って、普段は自覚できない潜在意識があらわれているそうじゃない。澪奈ちゃんの前世の記憶が潜在意識中に残存しているなら、夢の中にその情景が出てくることもあるんじゃないかしら」

「なるほど」と、僕は感心してまた言った。

「さすがに、現段階では夢の内容までは指図してあげることはできないけど、そこはあなたの腕の見せ所だから。上手く完結できるように、がんばってね!」

「はいっ! 先生、ありがとうございました!」

 僕はそう言って、深々と先生にお辞儀をした。

 

                                  ☆

 

「うーん、夢かあ」

 帰り道、また平林兄弟と伊勢原先輩というお決まりのメンツで帰ることになったので、僕は伊藤先生から受けたアドバイスを、先輩に話して聞かせることができた。

 しかし先輩は、物憂げな表情で考え込むばかりだった。

「あんまり意識したことなかったなあ」

「何か、ありませんか。前世の記憶と関連づけられるような夢を見たことは……」

「そう言われてもなあ。印象に残る夢って、あんまり見たことない気がするし」

「まあ、自覚があったらその時点で分析しようとしてるだろ。本当に何もないんじゃないか」

「あっ、でも」ふと、先輩が何かを思い出したように言った。「夢って言えば、これ前世の記憶とは関係ないかもしれないんだけど、自分でもよくわからない言葉を喋ってる夢を見るときがあるんだよね。しかも結構な頻度で」

「よくわからない言葉? ……それは、日本語なんですか?」

「うん、そりゃ日本語だよ。でも、どこかの方言なのかな。自分でも身に覚えがない言葉を、一生懸命喋ってるの」

「それは何か、前世の記憶と関係ありそうな気がするな」

 勇太さんが興味深げにうなずく。「その言葉の意味がわかれば、何か手がかりを掴めるかもしれない」

「そんなのどうやって調べるんだ? 夢の中の話だぜ。本人がわからないって言ってる以上、調べようがないだろ」

「寝言……」

 ふと頭に思い浮かんだその言葉を、僕はそのまま口にした。

「夢の中で喋ってるなら、もしかしたら寝言で言ってるんじゃないんですか?」

「えっ、そんな! 何を言い出すの、相澤くん。寝言なんて言わないよぉ」

 にわかに伊勢原先輩が顔を赤くしてたじろぐ。

 なにやら「寝言は恥ずかしい」とか、そういうたぐいの先入観があるらしい。お嬢様ならではの文化だろうか。僕にはよくわからないけど。

「寝言を言わないなんて、どうして自分でわかるんだ? おまえ、誰かと一緒に寝たことなんてないだろ? ――それとも、あるのか?」

「なっ、ないよ。悪いか!」

 心底困りきった様子で、伊勢原先輩は顔をうつむける。「修学旅行以外では……」

「よし。そうと決まれば、これからは美優奈の寝言を徹底的に調査するぞ」と、完全に乗り気な泉。

「はあ? ちょっと、勝手なこと言わないでよ」

「仕方ないだろ。なんでもイヤイヤ言ってたら、いつまで経っても妹さんと会えないぞ」

「そ、それはそうなんだけど……」

「しかし、寝言を調べるって、いったいどうやるんだ?」と、勇太さんが疑問を口にする。

「決まってんだろ。美優奈が寝てる部屋に、マイクやカメラなんかを設置しとくんだよ」

「それでも、小さな寝言なんかは捉えられんぞ。第一、確認作業に大変な労力を要する。寝言解析なんて、そんな簡単にできることじゃない」

 そういえば、今ではほとんど見なくなったけど、昔は真っ暗な寝室にカメラをセットして、幽霊が実在するか検証する! みたいな心霊特番がけっこうあったっけ。幽霊の発するラップ音くらいは拾えたとしても(実際にあるかどうかは知らないけど)、寝言の呟きなんか拾えないんじゃないか。

「それじゃあ、これでどうだ。美優奈が寝てるあいだ、俺たちがそばでついて、寝言を言わないかずっと観察しといてやる」

「ええっ、ちょ……そんなのダメに決まってるでしょ!」

 泉のめちゃくちゃな提案に、伊勢原先輩は今度こそ思いっきり慌てふためく。

「どうしてだ? 何か問題あるのか?」

 そりゃあるだろ。伊勢原先輩は花も恥じらう乙女なんだぞ。寝てるあいだじゅうずっとついてるなんて、そんな破廉恥なこと許されるわけがない。

 もし仮に先輩が許したとしても、僕が絶対に許さない。神に誓って許さない。神の怒りをくらえ!

「それは無理だ」

 神の怒りを代弁するような言葉を発したのは、勇太さんだった。

「泉もわかってるだろう。美優奈の両親は、娘の交友関係には異様なまでに厳しい。俺たちは昔からの付き合いってことで、なんとか目を瞑ってもらえているが。泊まり込みとなると、同性の友人さえ禁止しているくらいだ。頼み込んだところで、俺たちが家に上げてもらえるとはとても思えん」

 そういえば以前、泉から、伊勢原先輩の家は大変に格調高い家柄で、ご両親も躾に厳しい人だと聞いたことがあるな。先輩自身はやんわりと否定していたけど、あながち誇張しすぎってわけでもないらしい。

「そういやそうだったな。うーん、それならどうしたもんか」

 それから泉はしばらくあごに手を当ててうんうん唸って考えていたけれど、ふと突然何か思いついたようにペチンと指を鳴らして、こんなことを言った。

 

「ようし、こうなりゃ合宿をするっきゃないな!」

 

「……合宿?」

 訝しげに眉をひそめる伊勢原先輩と、互いに顔を見合わせる僕と勇太さん。その様子を交互に見ながら、泉は自信ありげに胸を張る。

「そう。俺たちが美優奈の家に泊まりにいけないのなら、美優奈のほうから来てもらえばいい。もちろん美優奈の親が外泊なんて許すわけないから、そこで合宿という大義名分だよ。部活のみんなと泊まりに行くってんなら、さすがに親も反対しないだろう。なにしろ、ほとんど女子部員ばっかりなわけだし」

「なるほど、その手があったか」

 何やら納得してうなずいている勇太さん。

 うん。僕としても、理屈はわかる。わかるけど、それだと、もっと重要な何かがなおざりになっているような気がする。

「でもやっぱり、寝ているあいだじゅうずっとそばについててもらうってのは、ちょっと……」

 伊勢原先輩が、不安そうに眉をひそめてそんな呟きを漏らす。

 いくら前世で男だったとはいえ、今はうら若き乙女の身体。思春期男子の眼前に寝姿を晒すというのは、やはり不安があるのだろう。

 僕だって、無防備に眠りこける先輩の寝顔を前にして、恒久的に理性を保ち続けられる自信はない。

「それなら女子部員に頼めばいい。別に事情を全部話さなくても、寝言を調べてもらうくらい協力してもらえるだろ」

「あ、そっか。ちょっと恥ずかしいけど、それなら……」

 なんと、伊勢原先輩までもが泉の提案に丸め込まれてしまった。

 先輩がいいと言うのなら、僕にはそれを止める権限なんてないけれど。本当にそれでいいのだろうか。

 確かに、部長であり部員たちから絶大な信頼を獲得している伊勢原先輩が「合宿をしたい」と言えば、その提案はすんなり通るだろう。

 満場一致で可決されること間違いなしだ。

 しかし僕は、疑念を抱かずにはいられない。

 単に泉が伊勢原先輩の権限の傘を借りて、合宿に行きたいだけなんじゃないか?

「わかったよ。明日の部活で、みんなに提案してみる」

 結局、泉に言いくるめられる形で、先輩が提案を飲んだ。

 もしかしたら、先輩はこう見えて結構、押しに弱い人なのかもしれない。

 

                               ☆

 

 僕の思った通り、次の日には伊勢原先輩の鶴の一声で、何の異論も反論も出さずに、あっさりと合宿の実施が決まってしまった。

「新入生の歓迎会も兼ねて、みんなで合宿に行きたいと思います。寝食を共にすることで、部員同士の親睦も深められますし、小説を執筆するうえで必要となる経験もたくさん積めるはずです。この経験こそ、創作をする人間にとっては、とても大切なものです」

 こんなふうに伊勢原先輩に言われてしまっては、もはや誰も異を唱えられる人などいない。

 裏で泉が糸を引いてるなんて、想像もしない。

 いや、そもそも異を唱える必要なんてないと思ってるのかもしれないけどね。

 伊勢原先輩と一つ屋根の下で寝られるなんて、願ってもないことだもんね。

「これでいい?」

「ああ。上等、上等」

 部活終わりに、伊勢原先輩と泉がそんなやりとりをしているのを見て、僕は少し不安な心持ちになった。

 これじゃあまるで、伊勢原先輩が泉の傀儡になってるみたいじゃないか。

 そんなこんなで、ゴールデンウィークの休みの日に、二泊三日で近場の宿泊施設にみんなで泊まりにいくことが決定してしまった。

 ――何なんだ。泉は文芸部を乗っ取るつもりなのか。

​初稿執筆:2016年

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