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第5章  この合宿はまちがっている!

 

 

 

 合宿へ行くこと自体は部内全員の賛成をもって可決したものの、実際に参加できる人数は、 全部で十五人いる文芸部員のうちのたった七人(+顧問の先生)と、かなり少なくなった。

 あたりまえだ。そもそも合宿をしようと言い出したのが四月の終わりかけというギリギリの時期だったし、そのおかげで宿もなかなかとれず、宿泊費が高額になってしまったということも原因に挙げられる。

 校外でアルバイトを始めた二年生、受験を控えた三年生、家族旅行の予定を入れていた人、そもそも文芸部にそれほど熱を入れていなかった人、 面倒臭がり、金欠、怪我人、仮病など、いろいろいて、まあ七人集まっただけでもいいほうだったのかもしれない。

 ちなみに、男子で参加できたのは、僕と泉の二人だけだ。――それはそれでよかったけど。

「もっとみんな参加できる日にやったほうがよかったんじゃない?」

 と、国語教諭というだけで一応文芸部顧問の肩書がついている石倉先生という女性教師が、計画時の部内会議で発言する。

 ちなみに、うちの文芸部は伊藤先生という強力な外部講師が頻繁に出入りしているためか、この石倉先生は滅多に顔を出すことがない。

 幽霊部員ならぬ幽霊顧問といったところだろう。そんな人にとやかく言われる筋合いはない、と言うのが部員たちの本音ではあったけれど。

「――せっかくのゴールデンウィークなので」と、伊勢原先輩はいつになく弱々しい口調で、先生の説得に回る。

 正直のところ、この時点では僕たちも、ここまで参加者が少なくなるとは予想していなかったのだ。

「でも、去年までやってなかったのに、今年から急に始める必要性はあるの? みんな参加できないのに」と、先生も食い下がる。

「今年から恒例行事にするんです」と、突然横から口を挟んだのは、今回の合宿の影の発案者たる泉だった。

「だから今年は、第一回ということで、試し合宿みたいなものです。さいわい、三年生は五人いるうちの四人は参加できますし、今回の合宿が上手くいけば、今回行けなかった二年生も、来年参加できると思います」

 さすがは泉だ。普段部活に出てこない石倉先生が、文芸部員からの信頼が薄く、発言力がそれほど強くないことを知っているから、強気になって熱弁を振るう。

「みんなも常々思っているでしょう。紙とペンさえあれば活動できるからって、文芸部だけがこの狭い部室に閉じこもってウジウジしてていいんですか。輝かしい初夏の日差しを浴びながらたくさんの経験を積み、青春を謳歌してこそ優れた作品を生み出せるんじゃないですか」

 官能小説を書きたいと公言している泉が言うと微妙に説得力に欠けるような気がするけど、

 それでも熱のこもった演説に魂を揺さぶられた部員たちが、次第に「そうだ、そうだ!」とか「合宿行きたいです!」とか、同調の歓声を上げはじめた。

 こうなってくるともはや数の暴力。賛成派意見を押し切ってまで合宿をとりやめにすること能わず、

 石倉先生はめでたくゴールデンウィークを返上して生徒の引率を押しつけられることになったのだった。

「これを機に、先生ももっと部活に顔を出すようにしてはいかがですか?」と、泉が提言。

 ――いや、少なくともおまえにだけは言われたくないだろ。

 

                                 ☆

 

 僕たちが泊まることになったのは、山あいの温泉郷にある、小ぢんまりとした旅館だった。そこに至るまでの所要時間は、特急電車でおよそ三時間。 お昼までには着いておきたいということで、僕たちは朝早くのうちに、学校近くの駅へと集まった。

 別に、そこで何かが行われたってわけじゃない。僕がここで特筆しておきたいのは、初めて見た伊勢原先輩の私服姿、ただそれだけだ。

 制服のときとはまた違った魅力がある。地味な色合いのカッターシャツに七分丈のパンツルックという、お金持ちのお嬢様にあるまじきボーイッシュなカジュアルスタイルは、どちらかというと野暮ったい部類に入るのかもしれないが、それを着用した人間の顔立ちの端整さが、そこはかとないギャップを生んでいて、余計に魅力を際立たせているから不思議だ。

 かっちりとフェミニン衣装に身を包んだ川辺先輩と並んで立つと、遠目にはまるで美男美女カップルのようにも見えた。こういうところにも、前世が男だった記憶が影響しているのだろうかと、そんなことを考える。

「美優奈の私服姿って、あたし初めて見たわ」と川辺先輩は言った。「意外とファッションには頓着しないのね」

「そう?」と、伊勢原先輩は首をひねる。

 いえ、そんなことはありませんよ。ほら、見てください。若岡さんがよだれを垂らしている。

 ――で、電車に乗り込んだ。指定席の四人掛けクロスシートに、僕と泉、伊勢原先輩と川辺先輩が向かい合ってそれぞれ腰を下ろす。

 若岡さんは、痴漢とかしそうで怖かったから、向かい側の席に座らせておいた。ぶつくさ言ってたけど。

「で、向こうに着いたら、まずは何をやるんだ?」

 と、合宿を提案しておきながら計画作りには一切関わらなかった泉が疑問を呈する。

 伊勢原先輩は、「泉、敬語」とそれを華麗に一蹴した。

「……何をやるんですか、伊勢原先輩」

「座禅」

「ザゼン?」

「と、写経」

「シャキョウ?」

 ロボットみたいに伊勢原先輩の言葉をオウム返しにする泉。

 ようやくその単語の意味を理解したとき、泉の口から暴言が飛び出した。

「美優奈、おまえアホなんじゃねーの?」

 それを聞いた石倉先生が、にわかに向かい側のクロスシートから叱責を飛ばす。

「こら、平林くん。部長さんに向かってなんていう言葉遣いをするの!」

 そういえば、先生は、伊勢原先輩と泉が幼馴染だということを知らないのだ。そりゃあ泉が傍若無人な態度を取っていると受け取られても仕方がない。

 泉はぐぬぬと歯ぎしりをしながら、こう言い直す。

「伊勢原先輩、アナタはアホなんじゃねーのですか?」

 それに対して、伊勢原先輩は不敵に目を細めて「ふふっ」と笑い、

「泉にはちょうどいいわ。この機会にしっかり禅の教えを学んで、煩悩に歪みきったその根性、叩き直すといいわ」

 と、悪の親玉みたいなことを言った。

 

                              ☆

 

「あー、くそう。だりーっ!!」

 本日の活動がすべて終わって、旅館の部屋に帰ってきたのは午後六時過ぎ。

 泉はさっそく上衣を脱ぎ捨てると、畳の上にごろんと倒れ伏し、座布団に顔をうずめて手足をばたつかせた。

「誰だよ、合宿で座禅しようなんて言い出した奴は。バカかよアホかよーっ!!」

 確かに。今日の活動はしんどかった。特に写経。座禅は動かなかったらいいだけだからまだ何とか耐えられたけど、意味のわからない文字列を延々と書かされるだけの苦痛といったら。まるで拷問。気が狂うかと思った。

 僕と泉は二人部屋。女子連中は、大部屋ではなく四人部屋を二つ借りて使っている。これは伊勢原先輩の提案だった。

 男子と女子とで待遇が違うのは不公平だ、というのが建前だけど、実際には、寝言調査を行いやすくするための便宜でしかない。

 部屋割りも、三年生と二年生で分けていて、石倉先生も二年生のほうに入れてもらっている。

「さて、ケイタよ」

 いきなりムクッと座布団から顔を上げて泉が言う。

「この合宿で、今夜俺たちがなすべきことが何か、わかってるよな?」

 僕はうなずく。

「わかってるよ。伊勢原先輩が寝てる部屋に夜こっそり忍び込んで、寝言を観察するんだよね」

「……それもあるが。それより先にもっと重大なイベントがあるだろう」

「もっと重大なこと?」

 意味がわからず、僕は首をかしげる。

「わからないのか。俺たちは合宿に来たんだぞ。それも温泉のある宿だ。いいか、よく聞けよ。この宿は、本来の温泉郷から少し離れた場所にあるが、お湯はちゃんと引いてきているんだ。そのおかげで、露天風呂という素敵なものまでついている」

「ああ……」

 泉の言いたいことがだいたい掴めたので、僕は呆れて肩を落とした。

 要するにこいつは、露天風呂を覗きたいと言っているのだ。

「ばかばかしい。そんなことできるわけないだろ」

「なんだ、おまえは美優奈のハダカが見たくないのか?」

「うぐっ、それは……」

 見たい。なんとしても絶対見たい。見たくないわけがあるか。それは人生のすべてを犠牲にしてでも見る価値があるものだ。

 もし見られたら、その時点で死んでいいとさえ思う。

 ――てなことを考えていると、ふと、とある疑問が頭に浮かんでくる。

「え? ちょっと待って。泉も、伊勢原先輩のハダカを見たいの?」

「そりゃ見たいよ」

 間髪を容れず即答されて、逆にびっくりしてしまった。

「そりゃ女のハダカは見たいよ。俺だって男だぞ。スケベで何が悪い!」

 どうしてだかわからないけど、どこまでも泉らしいはずのその答えが、そのときの僕には、ひどく意外に感じられた。

 僕はなぜか、泉だけは伊勢原先輩のことを性の対象として見ていないと思っていたのだ。

「おい圭太、おまえ何か勘違いしてないか? 言っとくけど、俺は今まで一度も美優奈のことを男だと思ったことはないぞ」

 考えてみればあたりまえのことなのに。その言葉に大きなショックを受けている僕自身に、自分でも驚愕してしまう。

「ああ、でも美優奈の場合は、『見えたらラッキー、でも自分から進んで見ようとは思わない』って感じかな。でも幼馴染って、だいたいそんなもんじゃね? 少なくとも恋愛対象としては見れん」

「そうなの?」

 僕には幼馴染と言えるような女の子の友達がいないから、その感覚はよく理解できないけど。

 性の対象としては見るけど、恋愛対象にはならない――か。なんとも泉らしいその言葉に、少しだけ安堵している自分がいた。

「とにかく、これは慎重を要する作戦だ。万全の計画を練ったうえで実行に移さねばならん」

 よもや本気で言っているわけではあるまいと思って、聞き流そうとしていると、

「今の時刻は午後六時十七分。夕食は八時からと言っていた。夕食の時間がこんなに遅いのは、それまでに風呂に入ることを宿側が推奨しているからと考えられる。加えて女は風呂が長い。温泉にきたら一時間近く入ることもあるだろう。つまり七時ごろには入りはじめると見ていい。女湯は、高さが二メートルほどの生垣に囲まれていて、普通なら中を覗くことはできないが、川の対岸に渡って木に登り、あらかじめ用意しておいた双眼鏡を使えばおそらく――」

「ぶつぶつうるさい!」

 あと、いやに現実的な作戦が聞こえてきてげんなりする。

 おまえがその周到な性格をもって合宿の計画のときに仕切っていれば、今日だって煩わしい座禅や写経をしなくて済んだはずなのに。

 ――力入れるところ間違ってるぞ。

「川の対岸へ渡るには、下流にかかる橋を渡らなければならないが、この旅館からだとおよそ一.五キロの距離がある。往復で三キロ以上。

分速三〇〇メートルで走った場合、所要時間は十分程度だが、未舗装の林道を通らなければいけないことを考慮すると――」

「本当にそんな野蛮な作戦を決行するのかよ!?」

 苛烈なツッコミを入れるも、泉は聞く耳を持たない。ハッと何か重大な事実に気づいたような顔をすると、

「行くぞ、圭太。このままだと時間がない!」と、鋭い声で叫んだ。

 ――マジで風呂覗きに行くつもりなのかよ。

 

                             ☆

 

 それから約十五分後。僕と泉は、旅館のちょうど対岸、笹竹の生い茂った林の中にいた。

 いや、僕としては誠に不本意極まりないっていうか。むしろ泉を止めにきたというか……。

 そう、僕はストッパーだから。暴走する泉を止めるという重要な使命のためにここにいるんだから。断じてお風呂を覗きにきてるわけじゃないから!

 しかもここまで道なき道を全力疾走してきたおかげで、体じゅう汗まみれ。そのうえ竹藪は蚊だらけで、痒いのなんのって。僕はもう半泣きになりながら、泉の後についていた。

 ふえーん。もしこんなことをしているところを伊勢原先輩に見つかったりしたら最悪だ。

 お風呂覗きが先輩にバレるくらいなら、裸踊りしているところを警察に現行犯逮捕されたほうがよっぽどマシだよー。

「ほら、まずはおまえが先に木に登れよ」

 と言いながら、泉が双眼鏡を僕の前に差し出してきた。

 なんでだよ! 言い出しっぺの自分が先に行けよ。

 どうせ僕を囮にして、見つかったら自分だけ逃げ出そうって魂胆だろ。わかってるんだよ、おまえのやり口は。

「そんなわけあるか。大丈夫だ。これだけ離れていれば、まず見つかる心配はない。俺の作戦はノーリスク・ハイリターンだぜ。そのための双眼鏡だろ!」

 確かに、渓流といっても川幅が広く、背の高い生垣で死角になっているので、まず露天風呂からこちらが見えることはなさそうだった。

 また、激流の流れる轟音のおかげで、たとえ大声を出したとしても、向こうまでは聞こえないだろう。

「行けよ。あの生垣の向こうには、きっとおまえの望むパライソが広がっている」

 なんか今日、やたらと横文字使いたがるな、泉。興奮するとそうなるのか?

「いいか、圭太。これは男として抗えざる自然な欲求なんだよ。俺たちに与えられた正当な権利なんだ。権利を行使せずして何が民主主義と言えようか」

 なんだその持論は。男の性的欲求と正当的権利を一緒にするな!

「腰抜けめ……。仕方ない。それなら俺が先に行く! なかなか順番代わらなくても、吠え面かくなよ!」

 と、泉は誇り高きサイヤ人の王子みたいなセリフを吐きながら、するすると木の上に登っていってしまった。引き留める隙もなかった。

 

 ――そして数秒後。

 

「うおええええ」

 死にかけのアホウドリみたいな声が頭上から降ってきた。

 泉は木の枝に腰かけたまま、死人のような目で喘ぎながら、下にいる僕に向けて苦しみを訴えかけてくる。

「いやだ……。俺は今、見てはいけないものを見てしまった」

「なっ、何を見たの、泉!? 伊勢原先輩は……いたの!?」

「いや……おまえは、見ないほうがいい。……SAN値が下がる」

 本当にいったい何を見たんだ!? 異形の化け物でもそこにいたのか?

「いた。俺は確かにこの目で見た。石倉先生が……全裸でいるところを」

「おまえ失礼すぎる!!」

 仮にも顧問の先生を捕まえて、なんて言い方をするんだ。天罰が下るぞ。

「いやいやいや、落ち着いてよく考えてみろ。あの年齢だぞ。むりむりむり。うげえ、マジで嫌なモン見ちまった。胸がムカムカする。吐いてこよっかな。これもう虐待レベル」

 自分で風呂場を覗いておいて虐待とは、よく言えたもんだ。

 それはそうと、石倉先生はあれでまだ三十代だったはずだ。ストライクゾーンのそれなりに広い人なら、全然アリだろう。

 泉があからさまに不愉快そうに眉をしかめて、胸をさすりながら木から下りてきた。

「どうやら時間を誤ったらしい。焦ることはなかったんだ。今はまだ七時にもなってないじゃねえか。女子たちが入るのは、もう少し遅くだな。それまでここで少し休んでいよう」

 そう言って、ガタガタと体を痙攣させながら、大きな石の上に横になる。

 ――どんだけダメージ受けてるんだ、こいつは。

「ねえ、泉。やっぱり覗きなんてやめようよ」

 僕が言うと、泉は石の上から言葉を返した。

「なんでだよ。おまえ、本当に美優奈のハダカを見たくねーのか?」

 それは……見たい。見たくないって言うと、もちろん嘘になる。

 だって僕は、泉とは違って、伊勢原先輩のことが、異性として大好きだから。

 でも大好きだからこそ、やっぱり先輩の嫌がることをするのは、耐えられない……。

「たわけ。圭太、たわけ! おまえなあ、美優奈は前世、もともと男なんだぞ。言ってみればこっち側の人間だ。男としての欲求を理解できる人間なんだ。気にする必要はない!」

「でも……」

「いいか、圭太。風呂場を覗いて裸を見るくらい、美優奈にとってはなんでもないことなんだ。きっと笑って許してくれる。長年付き合ってきた俺が言うんだから、間違いない。任せとけ、保証するよ」

 

「誰が笑って許してくれるって?」

 

 いきなり背後から聞こえてきた冷厳な声音に、僕たちはギクリとして動きが固まる。

 さっき僕たちが歩いてきた竹藪の獣道。振り返ると、そこに立っていたのは、言わずもがな麗しの伊勢原先輩だった。

 しかしその瞳は軽蔑と非難の色に濁り、氷のような冷たさで、僕たち二人を鋭く睨みつけている。

 最悪だ。終わった……僕の人生。

 なんてことだ。露天風呂覗きの現場を、よりによって伊勢原先輩に見つかってしまうなんて。

 しかも今までの泉との二人のやり取りは、完全に聞かれてしまっていただろう。

 死にたい……。先輩に嫌われるくらいなら、もういっそ死んだほうがマシだ。

「美優奈っ! どうしてここに?」

 さすがの泉も動揺して声を裏返らせる。

 先輩は、悠然とした態度で泉に尋ね返す。

「それはこっちのセリフ。どうしてあんたたちがここにいるのか、自分の口から説明して」

「どうしてって……見てわからないか。俺たちは露天風呂を覗きにきたんだ」

 ――潔いな! しらばっくれるってことを全然しないんだ、泉は。

 まあ、この状況で白を切るのはさすがに無理があるけど。それにしても潔いな!

 しかし泉は、「ククク……」と不敵に笑い、

「忘れたか。俺が書こうとしてるのは官能小説なんだぜ。これはそのための資料として――、」

「もう一回、禅の教えを学び直したいの?」

「……それは勘弁してください」

 ――弱っ! たったの一言で主義主張を封じ込まれる人って、生まれて初めて見たぞ。

 伊勢原先輩は、呆れたように大きなため息をつきながら、

「まさか本当に風呂覗きをしようとするとはね。やっぱり今夜のことは、本当に美香たちに頼んだほうがいいかもね。泉みたいなのをそばに置いといたら、寝てるあいだに何されるかわかったもんじゃないし」

 今夜のこと、というのは、この合宿の本来の目的である伊勢原先輩の「寝言調査」のことだ。

 まあ、僕もその意見には賛成だ。泉が簡単に暴走してしまうってことは、今回の件ではっきりした。

 僕が暴走しないためのストッパーだとか、いったいどの口が言えるのか。

「相澤くんも。泉にそそのかされたのはわかるけど、断らずに乗っかった時点で、きみも同罪だからね。わかってる? これ犯罪だからね」

「ご……ごめんなさい。つい、出来心で」

 仰る通りです。言い訳のしようもありません。僕はしおしおとこうべを垂れた。

 泉はなんだか、石の上で苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「まあ、未遂に終わったことだし。今なら不問にしてあげられるから、二人とも、早く部屋に戻りなさい。まだ誰にもバレてないから」

 本来なら、風呂覗きをしようとした男子など、未遂だろうが何だろうが問答無用で連行され、吊るし上げられ、非難轟々浴びせられた挙句、断罪処分にかけられるところだろう。それを、こうして一人で忠告しにきて、かつ見逃してくれようとするのは、やっぱり伊勢原先輩の優しさなんだろうと思った。

 もしかして先輩、僕たちを非難するためじゃなくて、助けるためにきてくれたんじゃ――。

「ちくしょう、美優奈だって」

 自分一人だけ悪者に仕立て上げられたことを根に持ったのだろうか。せっかく伊勢原先輩が温情で見逃してくれようとしているところに、まだ言い足りないことがあるらしい泉。えらく不満げな口調で愚痴をこぼす。

「そういう美優奈だって、実は女のハダカを見て興奮してんじゃねえのか? 自分だって前世は男だったわけだろ? それに、今まで自分以外の女のカラダを見る機会なんて、修学旅行以外、ほとんどなかったはずだ」

「……はあ?」

 伊勢原先輩は、本物のバカを見るような軽蔑の眼差しを泉に送る。

「女同士で興奮するわけないでしょう。何を寝ぼけたこと言ってんの?」

 まあ、普通に考えて、現時点で伊勢原先輩は女性なわけだから、同じ女の人に欲情するのはおかしいと思う。

 ――でも、そのおかしいを地で往く人が割と近くにいたりするんだよなあ。

「変なこと言ってないで、さっさと部屋に帰りなさい。言っとくけど、次はないからね」

「ごめんなさい、ありがとうございます」

 僕は先輩に向かってぺこりと頭を下げ、もときた道を歩きはじめた。

 でも、そのとき――。

 

「相澤くん、ちょっと」

 

 先輩にふと呼び止められる。

 先をいく泉は、僕が足を止めたのに気づかず、ずんずん前へと進んでいく。

 泉が僕から離れるタイミングをうかがって声をかけたことは、間違いなかった。

「先輩……?」

 月の光が、竹藪の梢を縫って、僕たち二人の頭上に降り注ぐ。

 ほの明るい光に照らされた先輩の美麗な顔は、少しだけ僕を哀れんでいるかのように見えた。

「手短に、話しておきたいことがあるの」

 と、先輩は静かな声で言った。

 

 ――そのとき、僕たちがどんな話をしたかについては、ここではひとまず語らないでおくことにする。

 なぜなら、あとで思い返したとき(それはたとえば十年後の未来かもしれないけれど)、このことが僕にとって、一番美しくて印象深い思い出になるだろうと思えたからだ。

 ただ、思い出が常に美しく感じられるのは、ただ単に愉快な記憶に裏打ちされているからというわけではない。

 当時の悲しみが深ければ深いほど、美しさを増す思い出もあるということだ。

 その日、僕は初めて「失恋」というものの苦さを味わった。

 

                                ☆

 

 全員の食事が済んだ夜の九時過ぎ。僕たちは伊勢原先輩の寝室にお邪魔することになった。

僕たちが部屋に入ると、先輩と相部屋の川辺さんと、もう一人の湛井(たたい)さんという三年生の人が、愛想のよい笑顔で手を振って招き入れてくれた。

 伊勢原先輩がうまいこと隠していてくれたのか、それともバレてはいるけど僕たちの行動なんて彼女たちにしてみればまだまだ手の内だったのか、何にせよお風呂を覗こうとしたことについては怒っていないようで、いささかビクついていた僕たちはホッとひと安心。

「実は、先輩たちに折り入ってお願いがあります」

 川辺さんたちの腰を下ろす目の前に、どっしと座ってやおらそう切り出す泉。

 さっきまで露天風呂を覗こうと大はしゃぎしていたとは思えないような真剣な面持ちだった。

「お願い?」と、先輩たちは不思議そうに首をかしげてみせる。

「そうです。これは美優奈……伊勢原先輩に関係することです」

「美優奈に……?」

 泉はそれから、川辺先輩たちに、伊勢原先輩の寝言を調べたいという旨を話した。もちろん、前世の記憶とかそういう箇所は隠したままで。

 最近、伊勢原先輩は悪夢を見ることが多く、しかもその内容を覚えていないから、寝言から何かヒントを掴みたいとかいう話に差し替えていた。

 しかし三年生二人の反応は思ったより鈍かった。

「そう言われてもねえ」

 先輩たちは揃って、困ったように眉をひそめる。

「それってつまり、美優奈が一人で寝てるあいだ、わたしたちがずっと起きてて、見てなきゃいけないってことでしょ? 普通の日とかだったら全然いいんだけど、明日の予定もあるしね……どうだろう」

 そう。僕たちが懸念していたのは、まさにそこのところだった。

 伊勢原先輩の寝言を調べるということは、すなわち彼女だけが安らかな眠りに就き、残りの二人には徹夜をしてもらうということに他ならないのだ。これはさすがに頼みにくいのではないかと思っていた。

 加えて、明日は近くの山でトレッキングに渓流での魚釣りと、体力勝負のイベントが目白押しだ。文芸部なのになんだそりゃって思うところだけど、とにかく先輩たちに徹夜を強要することは難しい。

「そっか。そうだよね。無理ならいいんだ。ごめんね、無茶なこと言って」

 そう言いながらも、伊勢原先輩はしょんぼりと肩を落としていた。

 同室の二人に頼れないとなると、今度はいよいよ泉に頼まなければならなくなる。

 風呂覗きのこともあったし、僕たちに任せるのは、先輩の心情的にも極力避けたい選択だろう。

 はて、どうしたものかと首をひねっていると、

 

「ご安心ください!」

 

 唐突な雄叫びと同時に、いきなりバーンと勢いよく開かれた寝室の扉。

 誰がそこに登場したのかは、まあ本人の顔を見ずともわかる。

 若岡さんが超満面の笑みで、部屋の入口に仁王立ちしていた。

「若岡さん……何しにきたの」

「何しにきたのとは失敬な。たまたま部屋の前を通りがかったら先輩たちの話し声が聞こえてきたので、気になって中を覗いていたんです」

 しまった。秘密の話をしていたところを部外者に聞かれるなんて、なんたる不覚。注意不足だった。

 というか、たまたま部屋の前を通りがかったって、ここ一番奥の角部屋なんだけど。

 明らかに最初から盗み聞きするつもりで来てるよね。悪びれもせずに開き直るなんて、なかなかできる真似じゃないぞ。

「それより、さっき言った『ご安心ください』っていうのは……」

 伊勢原先輩が尋ねる。

 確かに。何だったんだ、あのセリフ。僕もものすごく気になる。

「はい。先輩方の話を聞いていてわかりました。要するに、伊勢原先輩が普段、どんな夢を見ているか調べればいいんですよね」

「う、うん。それはそうなんだけど……」

 理解力が良いのは大変によいことなんだけど、若岡さんはある意味で僕たち男子よりも危険な存在だ。いくら彼女が伊勢原先輩の寝ているあいだ、つきっきりで見ていると申し出たところで、先輩は首を縦に振らないだろう。

「ふっふっふっ、違います。徹夜なんかする必要ありません。なにしろこのわたし、催眠術が使えるのですから」

「さ、催眠術?」

 唐突に飛び出してきたその言葉に驚いて、僕たちは思わず顔を見合わせる。

「そうです。何を隠そうこの若岡由美、中学時代はオカルト研の部長を務めていましたから。

人に催眠術をかけて潜在意識を呼び醒ます術を独学で習得しているんです!」

 す、すごい……。独学でそんな怪しげな術を習得している時点で十分すごいけど。それ以前に、いかがわしさ具合がなかなかすごい。

 オカルト研の部長をしてたら、催眠術が使えるようになるのか?

 しかし本当に催眠術が使えるというのなら、彼女に任せるのも一つの手かもしれない。

 実際、「催眠術を使って前世の記憶を呼び起こす」というのは、伊藤先生の出した案の中にもあったじゃないか。

 その効力がいかほどかは推測しかねるけど、危険がないのなら、乗っておいて損はないと思った。

「それってすぐにできるの? 道具とかは必要ない?」

「いらないですよ。わざわざ布団に入って寝る必要もありません。わたしの手にかかれば、椅子に座ってる人でも五秒で眠らせることができます」

 五秒とはこれまたすごい。吸引麻酔並みじゃないか。若岡さんがまさかこんな――普通に人を殺せそうな特技を持っていたなんて。

 ある意味怖い。伊勢原先輩も顔を青ざめさせている。

「そ、それじゃあさっそく、やってもらおうかな」

「かしこまりですっ! ああ、わたしのこの能力(ちから)が美優奈さまのお役に立つときがくるなんて感激です。それじゃあ先輩、体の力を抜いて、壁にもたれてリラックスしてください」

 この部屋にはベッドがないので、畳の床に布団をじか引きである。

 伊勢原先輩は若岡さんに言われた通り、足を伸ばして座った状態で、壁にもたれて脱力して顔をうつむけた。

 若岡さんは、先輩の前で腰を落として膝をつく。

「いいですかー。それでは今からわたしが『パンはパンでも食べられないパンはなーんだ』と尋ねますから、先輩は『パンツ』と答えてください。そしたらわたしが『ぶー、残念はずれ。正解はフライパンでしたー。このおちゃめさん、ウフフ』と言うので、先輩は……」

「ちょっと待って。そのやり取りって必要なの!?」

 伊勢原先輩がなんだかすでに服従モードに入っちゃってるらしく、顔をうつむけたまま突っ込もうとしないので、代わりに僕が突っ込まざるを得なかった。

 明らかにおかしいだろ。五秒で眠らせられるとか言っておきながら、なんでコントを繰り広げる必要があるんだ。

 若岡さんは不機嫌そうに僕のほうを振り返り、ジトッとした目つきを送ってきた。

「うるさいなあ。相澤どのはちょっと黙っててください。この独自の催眠術を開発したのはわたしなんですから、わたしの言うことは絶対なんです。何しろこの術は、わたしにしか使えないんですから。余計な口出しは無用です」

 考え方が危ない。催眠術にかこつけて、伊勢原先輩を思いのままにしてやろうとか思ってるんじゃないだろうな。

 ここは僕が注意して、若岡さんの思い通りにいかないように見ててやらないと。

「まあ、仕方ない。それではわたしがこれから『ラリホーマ』と言うので、先輩はその合図で寝てください」

 寝てくださいって……。そんな簡単に寝れたら誰も苦労せんわ。

 ていうか、なんかここにいる全員が寝てしまいそうな合図だな。合図というか呪文だけど。

「それでは、いきますよ~」とか言いながら、若岡さんは両の手のひらを先輩の顔の前に突き出した。

 そして今度は歌うような甲高い声で一言。

「ラ・リ・ホ――マ!」

 なんだそりゃ、と思うところだけど、その滑稽な掛け声と同時に、伊勢原先輩の頭がカクン、と下に垂れたものだから、僕たちもびっくり仰天だ。

 そしてかすかに聞こえてくる、すぅすぅという心地よさそうな静かな寝息。

 どうやら本当に先輩は若岡さんの催眠術にかかって、眠りに落ちてしまったらしい。

 すごい効き目だ。本当に五秒で眠ってしまった。だてにオカ研で部長を務めていない。

「さあ、美優奈先輩。どうですか。何か見えますか? 見えたものを正直に口にしてくれていいんですよ」

「う……ううん」

 かなり雑な質問の仕方だけど、伊勢原先輩はそれに答えるように、小さく声をうならせた。

 眠っていて、確かに意識はないはずなのに、若岡さんの問いかけには応答している。

 そこにあるのは間違いなく先輩の潜在意識であり、すなわちそれは彼女にとっての、前世の記憶そのものなのだろう。

「どうですか。どんな気分ですか? 何か喋ってくれてもいいんですよ」

「…………うぅん」

 今度は少し苦しそうに、体をよじらせる伊勢原先輩。額は汗ばんでいる。

 僕は、彼女の見ている夢が、悪夢でないことを切に願った。

 軽々しくも催眠術をかけて潜在意識を引き出すなんて言ってしまったけど、もし先輩が自分の死の瞬間を何度も繰り返すような悪夢を見ていたとしたら、僕は先輩に顔向けできない。

「おい、美優奈、大丈夫か?」

 さすがの泉も心配そうに、先輩の顔を覗き込む。

 だけどそのとき、先輩の発した言葉が、

 

「だから……もう、食べられないって……言ってるじゃない……」

 

 パシーン、といきなり無言で先輩の後頭部をはたく泉。

 慌てて若岡さんが泉に掴みかかる。

「ちょっと、何するんですか! 催眠術が解けて美優奈さまが目を醒ましたら、どうするんですか!」

「いや、スマン。美優奈があまりにも古典的なギャグをかますもんだからつい、反射的に」

「そうでなくとも美優奈さまの頭をはたくなんて、天に唾するも同じ行い。たとえ神が許しても、わたしが絶対に許しません。美優奈さまの頭がバカになったらどうするんですか」

「いや、美優奈はもともと、けっこう天然なところあるぞ」

「なあ?」と、泉は同意を求めるようにこちらに視線を送ってくるけど、知らねーよ。そもそもそれが伊勢原先輩の頭を叩くことを正当化できる理由にはならん。

「さいわい、催眠術は解けていないようです」

 若岡さんが、泉にはたかれてうつむきがちになった先輩の顔を覗き込みながら言った。

「どうですかー、まだ何か見えてますかー?」

 また雑な聞き方をする。伊勢原先輩は、すると今度はさっきとは少し違う反応を見せた。

「う……うぅ……」

 なんと、泣いているらしかった。閉じたままの瞼の隙間に、涙の滴が滲んでいる。

「ほらー、泣いちゃったじゃないですか。どうしてくれるんですか、この鬼畜!」

「ええ!? ツッコミで頭はたかれたぐらいで泣くか、普通? つーか、本当にそうなら完全に催眠術が解けてんじゃねえの?」

 泉の言動を擁護するわけじゃないけど、伊勢原先輩は泉に叩かれて泣いているのではないと僕も思った。

 先輩は、その程度で泣くような弱い人じゃない。やはり彼女は、夢を見て泣いているのだ。

 やがて、ぽたりぽたりと先輩の手の甲に、涙の粒が落ちはじめた。

「……起こそう」

 いてもたってもいられず、僕はそう言った。

「これ以上、先輩を苦しませるわけにはいかない」

「まあ、落ちつけよ圭太」

 泉は妙に余裕ぶっている。

「どんなに悲しい夢だろうが、所詮はただの夢、現実じゃない。美優奈もそれはちゃんとわかって、この作戦に乗ってるはずなんだ。あんまり甘く見るな」

「でも――、」

 若岡さんは、催眠術で先輩の潜在意識を引き出すと言った。

 実際、それは成功したのだろう。

 でもその「潜在意識」っていうのが、ひょっとすると、あまりにもつらくて悲しい記憶だから、精神の防衛機制で抑圧され、

 結果的に識域下に封じ込められていたものなんじゃないだろうか。

 それをむりやり呼び醒ますというのは、ひどく強引で残酷なやり方のような気がした。

 

「どうして……」

 

 不意に、伊勢原先輩が急にはっきりと言葉を発した。

 さっきよりもずっとしっかりした発音だったけれど、目を覚ましたわけではないらしい。僕と泉のやり取りに反応したわけでもなさそうだった。

 おそらく、これも寝言だろう。

 僕と泉は、すかさず口論をやめ、先輩の言葉に耳を澄ませた。

「どうして……わかってくれないの?」

 誰に言っているんだろう。

 泣きながら言うくらいだから、よほどの思いを込めて言っているはずなのだけれど。

「どうして……仲良くしてくれないの? ――ユウタくん」

 ユウタくん。

 僕たちのうちの何人かは、その名前に聞き覚えがあった。

 もちろんそれは、泉のお兄さんの平林勇太さんのことだ。

 でも、ユウタなんてありふれた名前だし、それだけであの勇太さんと決めつけてしまうのは早計だ。

 第一、これは伊勢原先輩の潜在意識が見せている特殊な夢のはず。ということは、むしろ前世の記憶と関係していると考えたほうがいいんじゃないだろうか。

 結局、それ以降、眠ったままの伊勢原先輩が言葉を発することはなく、五分ほどしてから、自然に眼を覚ました。

 先輩は、起き抜けに目をこすり、そのこすった手が大量の涙で濡れていたことに、ひどく驚いたようだった。

 そして彼女は、心配そうな面持ちで自分の周りを取り囲む面々に向かって、おもむろに口を開いてこう言ったのだった。

 

「あれ? ――ここって、病院じゃないの?」

​初稿執筆:2016年

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