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第6章  死にたくなるほどの絶望的な悲しみ

 

 

 

 僕たちの泊まっている旅館は、かなり山奥の谷間の温泉地にあって、細い清流を挟んだ岸の両脇に数軒の温泉旅館が並んでいるようなところだった。

 各旅館は半地下のような構造になっていて、玄関から入って階段を下ったところにある大広間からは、京都鴨川の川床のごとく、少し広めの木製のバルコニーが谷底に向かって突き出していた。

 夏場の夕涼みにはまだ時期が早いけど、風呂上りということで、僕は泉と一緒にそこへ出て、コーヒー牛乳を飲みながら、轟々と音を立てて流れる真っ暗な渓流を眺めていた。

「いやあ、涼しいな。ここで布団敷いて寝たら気持ちいいんじゃないか?」と、泉が言った。

「気持ちいいだろうけど、蚊がいっぱいいそう。それに寝相が悪いと谷底に落ちて死ぬよ」

 そのベランダには、手すりこそついているものの、あくまで転落事故防止用のものであって、ちゃんとした柵とかではないので、下の部分はスカスカだ。もし眠ったままごろごろと転がっていったら、目測二十メートルはある真っ暗な谷底へダイブすることは間違いない。

 そんな寝相の悪い人はいないだろうけど。

「結局、催眠術をかけたところで、具体的なことは何もわからなかったな」

 泉が、手すりにもたれかかって空を見上げながら、ふとそんなことを呟いた。

 ――そうだろうか。今までになかったヒントは、いろいろ出てきたように思うけど。

「伊勢原先輩の口にした、ユウタくんって名前、あれ勇太さんのことなのかな?」

「そうかもな。でも俺の知る限り、美優奈はうちの兄貴のことを呼び捨てにしてる。人前では『平林くん』って言ったりもするみたいだが、

少なくとも名前にくん付けで呼んでるところを俺は見たことがない」

 泉がそう言うのなら、それは間違いないんだろう。

 それに、催眠術にかかった伊勢原先輩は、その「ユウタくん」に向かって、どうして仲良くしてくれないの? と涙ながらに訴えていた。

 今の二人の関係を見ていると、幼馴染ということもあって、性別の枠を超えた仲良しこよしだ。とてもそんな対立があったようには思えない。

「それじゃあ、先輩が言ってた、病院っていうのは?」

「知らん。それこそ前世の記憶の片鱗だろう。美優奈が入院してたとかいう話も聞かんし」

 そうすると、やはり伊勢原先輩が夢の中で見ていたのは、前世の記憶なんだろうか。

 そうなると、ユウタくんというのも、前世で関わりのあった人物の名前ということになる。

 ただ、その二つだけでは、前世で住んでいた場所を特定するための手掛かりにはなり得ない。

 残念なことに、伊勢原先輩自身は、そのときに見た夢のことをほとんど覚えていなかった。

 ただ「病室のベッドで寝ていた」ことだけは、はっきり覚えていると言った。

 それ以外は一切記憶になく、自分がいったい寝言で何を言ったのか、どうして泣いているのかも、わかっていないようだった。

 ただ、先輩はそのときの感情を、「悲しい」とだけ語った。

 ――なぜかわからないけれど、とても悲しい気持ちになったと。

「もしかしたらさ……」

 泉はいつになく神妙な面持ちで口を開く。

「実は美優奈が前世だと思っていた人は、まだ生きてるんじゃないかな」

「え?」

 その突飛な発言に、思わず首をかしげる僕。

 泉は言葉を続ける。

「美優奈は、車に轢かれて即死して、そんで生まれ変わったと思ってるだろ。でも本当はそうじゃなくて、その人は生きてて、今も病院のベッドで、意識不明の状態で眠っているんだよ。美優奈は夢の中で、そのシーンを見ちまったんだろうな」

「そんな、まさか」と一笑に付すも、なぜかそのときの泉の仮説は、妙に現実味があるように思えてしまった。

 おかしいな、ただの妄想のはずなのに。

「そうなるとさ、美優奈の存在そのものが――いや、俺たちが今生きているこの世界全部が、その人が作り上げた、ただの夢ってことになるかもしれないぜ。だから、その人が何かの拍子で目覚めちまったら、夢の世界の住人である俺たちはみんな、突然ふっと消えてしまうんだ」

「また、そんな妄想を……」

「でも、話としてはそのほうが面白いだろ?」

 泉はさもおかしそうに、顔をくしゃっと歪めて「うひひ」と笑った。

「おまえも作家志望なら、これくらいの妄想はできるようにしといたほうがいいぜ」

「……まったく」

 でも泉の言う通り、もし小説を書くとしたら、筋書きとしてはそっちのほうが面白いかもしれない。

 だけど、あいにく僕が書きたいのは、SFやオカルトやセカイ系ではなくて、伊藤先生の『僕と先輩の恋愛諸事情』のような、ごく現実的な大衆小説なのだ。世界消滅とか、そんなご大層な展開はお呼びではない。

「ま、冗談はさておきさ」

 泉はニヤニヤしながら自ら逸らした話題をもとの軸に戻す。

「問題は、この寝言調査を、今後も続けるかどうかだよな」

 それはもちろん、根気よく続けていくべきなんじゃないの? ――というふうには、僕には答えられなかった。今日先輩の流した涙を見たら。

 確かに先輩は、若岡さんの催眠術にかかって眠りに落ち、前世の記憶に関係すると思われる寝言を口にした。

 そこだけ見れば、今夜のことは大成功だったと言える。

 だけど、その代償として先輩が苦しむのなら、作戦そのものを考え直さなければいけない。

 特にそれが、精神の防衛機制がかかるほどのトラウマ級の苦しみならなおさらだ。

「そのへんは結局、本人次第だな。覚悟があるなら、続けたいって言うんじゃないか?」

 泉はそう言って、最後に残ったコーヒー牛乳をすすり上げる。

 彼の口ぶりには、やはりどこか余裕が感じられた。

 口ではああ言いながらも、心の内では、伊勢原先輩が寝言調査を続ける決意があることを、確信しているのだろう。

 僕だってそう思う。先輩が生まれ変わりのことで深く悩んでいるのは事実だし、それを解決するために必要なことなら、彼女は自らが苦しんだり傷ついたりすることを、甘んじて受け入れるだろう。事実、そういう覚悟があることを、遠回しにではあるけど、僕はあの竹藪の中で先輩の口から聞いた。

 でも、実際はそういうことじゃない。本当の問題は、果たして僕たちが先輩に苦痛を与え続けられるかどうかだ。

「そろそろ部屋に戻ろうぜ。虫がいる」

「……いや、僕はもう少しここにいるよ」

 僕がそう答えると、泉は意外そうに「ほお」と声をうならせた。

 なんとなく、一人になりたい気分だった。一人になって、もう一度よく考えたかった。

 ――竹藪の中で、先輩が僕に語ったことについて。

 気持ちの整理がつかないまま、いろいろなことが起こってしまった。

 先輩の想い、僕の想い。

 いろんな想いが複雑に交錯している今の状態で、僕たちは決断を下さなければならない。

 果たして僕は、先輩の心を深く傷つけてまで、その願いを叶えたいと思っているのだろうか。

 

                                ☆

 

「手短に、話しておきたいことがあるの」

 伊勢原先輩はそう言った。恥ずかしながら、泉にそそのかされて、露天風呂の女湯を覗きに行ったときのことだ。

 僕はてっきり、そのことについて先輩から改めて叱責を受けるものだと思っていから、素直に観念して頭を下げた。

 けれど肝心の先輩の様子が、どこかおかしかった。

「今回のことについては、相澤くんも男だし、合宿にきて泉とハメを外したかったってこともあるだろうから、情状酌量で許してあげます。でも、今度やったら承知しないからね」

「は、はい。もうしません。申し訳ありませんでした」

 先輩がここで突然、丁寧な言葉遣いになったのが、照れ隠しからくるものだということは、語調や雰囲気で僕にもなんとなくわかった。

 何かの理由で、先輩は恥じらっていたのだ。

「でね、さっきのことなんだけど――、」と、先輩は前置きをした。

 さっきのこと、というのが何を指しているのか、僕にはわからなかった。

「相澤くんがあたしのこと異性として好いてくれてるのは、素直に嬉しいです。ありがとう」

「――!?」

 そうでなくても、風呂覗きという破廉恥行為を見られた恥ずかしさで死ぬほど混乱していたのに、いきなりそんなことを言われてしまって、僕は危うく足もとがふらついて、川に落ちて本当に死ぬところだった。

 そこに至るまでの、泉との会話をすべて先輩に聞かれていたことは、僕もわかっていた。

 でもそのなかで、自分が本当にそんなことを口走っていたのか、どうしても思い出せない。

 そして、先輩があえてそれを聞かなかったことにせず、わざわざここで掘り返してきたことについては、まさしく意外としか言いようがなかった。

「このタイミングでこんなこと言うのはおかしいと思うんだけどね。わかってたよ、実を言うと。あ、この子たぶんあたしのこと好きなんだろうなーって。最初に会ったときから」

「あ……あ……」

 何か喋ろうとするも、うまく言葉が出てこなかった。

 思えば、いつもそうだった。先輩を前にすると、緊張のあまり、ろくに言葉を喋れなくなる。

 そんなあからさまな態度を見たら、僕が先輩に惚れていることぐらい、本人じゃなくても誰だって気がつくだろう。

「普通なら、こんなこと言わないよ。告白されてもないのに、自分のこと好きでしょなんて。相手を傷つけるだけだもん。相澤くんにだけこんなこと言うのは、きみがあたしの……オレの秘密を、知ってるから」

 僕はもう、自分の口から何か言葉を発するのを諦め、黙って先輩の話の続きを待った。

 谷間を照らす青白い月の明かりが、先輩の真剣な面持ちを、笹竹の隙間から暗く映した。

「前にも言った通り、オレの気持ちは混沌としてる。だから、はっきり言っとく。今は誰とも付き合えない。

これは相澤くんだからってことじゃなくて、誰であっても同じ。好きとか嫌いとか、そういうの以前の問題だから」

「…………」

 それは、僕にとっては生まれて初めての失恋経験――のはずだった。

 それなのに、不思議とショックだとか、落ち込んだりだとか、そういう気持ちにはならなかった。

 自分のなかで、現実感がほとんど消え失せてしまっていたのだろう。むしろ、伊勢原先輩もこう見えて陰でいろいろ悩んでるんだなと、同情してしまった。

「でもさ……」

 先輩は言葉を続ける。「もし前世で住んでいた町に行って、妹に会って話ができたら、何かが変わるような気がするんだ。ふっ切れるっていうか、自分のなかでひとつの決着になるような、そんな感じ。だから――、」

 先輩は、悲しそうな顔で笑った。

 

「返事は、そのときまで待っててもらっていいかな?」

 

                               ☆

 

 改めて思い返すと、あれは失恋ですらなかったのかもしれない、とも思えてくる。

 先輩があれを言った意図。

 僕の気持ちを拒絶するというよりは、前世で住んでいた場所をつきとめるため、今後さらなる協力をお願いするというところに重点があったような気がする。

 それに「返事は、そのときまで待っててもらっていいかな?」という言葉。

 これは、ふられたというよりは、保留にされたと言ったほうが正しいだろう。望みが完全に消えてしまったわけではない。

 それでも、その言葉の裏に、希望的観測が見えるかというと、そんなことはまったくない。

 あれは「今はダメだけど、時機がきたらOKするよ」という意味ではない。

 今は誰かを好きになることはできないけど、もしそれができるようになったときに、自分がどういう気持ちを抱くかは、伊勢原先輩本人にとっても未知数なのだ。

 だから保留なのだ。

 欄干に肘をついて、そんなことを黙々と考え続けていた。

 あまりにも思案の渦中に深く入り込みすぎていたせいだろう。人の近づく気配に、まったく気がつかなかった。

 ふと横を見ると、そこに浴衣姿の伊勢原先輩がいた。僕は思わず「わっ」と叫んで一歩後ずさる。

 先輩は、泉と入れ替わるように、そこに立っていた。まるで幽霊のように、足音を立てず。

 まるで僕などそこにいないかのように、まっすぐ前を向いて、無言で手すりに白い手を置く。

 その表情は、暗い陰に沈んでいるように見えた。

「ここいいね。涼しい」と、先輩はぽそりと小声で呟いた。

「あ、あのっ」

 僕は慌てて姿勢を正す。「僕、お邪魔でしたら、今すぐ部屋に……」

「えっ、どうして?」

 先輩は、にわかに驚いたような眼で、僕の顔を見上げた。

「せっかく二人きりになったのに、なんでそう言うの?」

「えっ? ああ……すみません」

 僕が謝ると、先輩はまた意気消沈したように肩を落とした。

「泉と、何の話をしてたの?」

 先輩は、僕の顔から視線を外し、また前を向き直ってそう尋ねた。

 いったい先輩はいつから僕たちのことを隠れて見ていたのだろう、と思いながら答える。

「さっきの、催眠術のことです」

「催眠術のこと?」先輩は不思議そうに声を高くした。「寝言のことじゃなくて?」

「ええ、催眠術のことです。これ以上、この作戦を続けてもいいものなのかどうか……」

「それはどうして? ――あたしが泣いたから?」

「そうです」

 僕は率直に答えてうなずく。

「催眠術で潜在意識を呼び起こすって簡単に考えてましたけど、先輩に悪夢を見せる可能性があるってことまでは想像していませんでした。……ごめんなさい」

「そっか。そこまで考えてくれてたんだ」

 先輩はため息をつきながらそう言った。

「実は、あたしもそのことでお願いがあって言いにきたんだ」

「お願い……ですか?」

「うん」

 先輩は、うなずきながら欄干から手を放し、再度僕の顔を見上げた。

 訴えかけるような眼をしていながら、口もとは強い決意の表れか、堅く結ばれている。

 先輩は、こう言った。

 

「もう、あんな夢を見るのは、いや」

 

 そよ、とうすら寒い風が、僕と先輩のあいだを吹き抜けていった。

 その言葉を聞いたとき、僕の脳裏に浮かんだのは、「意外」の二文字だった。

 さっきも言った通り、僕は、伊勢原先輩は寝言調査を続けたいと言うと思っていた。

 あれほどまで強く望んだ、前世の記憶の再燃。故郷への回帰と、妹との再会。

 それを実現するためには、多少の困難など克服してみせると、先輩はそういう強い意志をはらんでいると、そう思っていた。

 ひとりよがりな考え方だったと、今さらながら思った。

「夢の内容、覚えているんですか?」

 僕が尋ねると、先輩は力なくかぶりを振った。

「夢の内容までは覚えてない。でも、悲しい気持ちだけは残った。いや、悲しいなんて簡単な言葉ではとても言い表せられない、絶望的な苦痛」

「絶望的な苦痛……」

「ねえ、相澤くん。あたしは少なくとも、伊勢原美優奈として生きてきた今までの人生、ずっと幸せだったんだよ。とても恵まれていて、満たされた人生だった」

 先輩は欄干に肘を置き、そこに顔をうずめながらそんなことを話した。

 くぐもった声が、渓流の轟音の合間を縫うようにして、僕の耳に届けられる。

「死にたい――なんて思ったことは、一度もなかったよ。そりゃあもちろん、一度死んで生まれ変わった人生だもん。そうやすやすと失ってたまるかって気持ちもあったけどさ、それ以前にね、そんなことを考える暇もないほど、楽しかったんだよ。何もかもが」

 それは、伊勢原先輩以外の誰かが口にしたら、嫌味に聞こえるせりふだったかもしれない。

 でも、彼女の場合、それは一度死んで生まれ変わることによって得た権利――神様と契った証だということがわかっていたから、僕はとても自然にその言葉を受け入れることができた。

「つらくて悲しくて、どうすることもできなくなって、『死にたい』なんて思ったのは、初めてのことだった」

「死にたい――と思ったんですか、夢の中で」

 その話を聞いて、ふととある仮説が僕の頭に浮かんでくる。

 もしかして、先輩の前世だった人は、自ら命を絶ったんじゃないだろうか。

 そして先輩は、そのときの記憶というか感情を、夢の中で思い出していたんじゃないだろうか。

 悔恨と未練だらけの短い人生に、自らの手で強引に幕を下ろして、そして死の間際、新しい命に生まれ変わらせてくれる神様と出会った。

 そのとき、先輩の出した本当の答えは――。

「眠れないの」

 先輩は、やがて力のこもらない、か細い声でそう言った。

「寝るのが怖い。またあんな悲しい夢を見るんじゃないかって思うと、胸が張り裂けそうで」

「先輩、そこまで……」

 もしかしたら、先輩は僕とこんな話をするためにここへきたのではないのかもしれない。

 ただ眠ることへの恐怖心を紛らわせるため、夜風を浴びにきただけなのかもしれない。

 そんな彼女に、僕はいったいどんな言葉をかけてあげることができるのだろう。

「二度とあんな気持ちを味わうのは、いや。死ぬほどの苦しみを味わうのは、もういや」

 先輩はやがて、伏せていた体を起こしながら、涙声でそう言った。

「だから、せっかく作戦を考えてくれてた相澤くんたちには悪いけど、ごめんなさい。さっきみたいなのには、もう協力できない」

「それは……仕方ないと思います」

 でも、さっきも言ったように、今のところ前世の手がかりを掴むには、識域下に封じられているはずの先輩の記憶をあてにするしか他に方法がない。

 この催眠術作戦ができなくなると、先輩のかつて住んでいた場所を探し求めるのは、格段に難しくなる。

 どうする、ここで諦めるべきか。それとも――。

「先輩! ……いえ、伊勢原美優奈先輩」

 大広間へと戻ろうとする先輩の背中を、僕は反射的に呼び止めていた。

 先輩は、フルネームで呼ばれてちょっと戸惑ったように僕のほうを振り返る。

「伊勢原美優奈さんは、これからも……ずっと、伊勢原美優奈さんですからっ」

「……相澤くん?」

 何を言っているのかわからないというふうに、怪訝そうな顔をする。

 当然だ。僕だって、自分がいったい何を言いたいのか、うまく整理できていないまま喋っているんだから。

 それでも、伝えたいこと――伝えなきゃいけないことがあると思ったから、僕は正直に言葉を繋いだ。

「だから……、前世で何があったかはわかりませんけど、少なくともこの人生のうちでは、死にたくなるようなつらいことなんて、絶対に起こりませんからっ。安心して眠ってください。きっといい夢を見ますから!」

 先輩は、しばらくぽかんと口を開けて、僕の言葉を聞いていたけれど、にわかにニコッととびきり明るい笑顔を僕に見せてくれた。

「そうだね。ありがとう、おやすみなさい」

 その笑顔は、先輩が泉や勇太さんたちに見せるものとそう変わらなかったような気がして、嬉しかった。

 

                                ☆

 

 部屋に戻って、僕はさっき伊勢原先輩と話したことを、泉に伝えた。

「なるほどな。催眠術で前世の記憶を引き出すのは、もうやりたくないと」

 泉は話を整理しながら、足の指の皮を剥いていた。畳の上で。ティッシュ使え、おい。

「まあ本人がそう言ってんなら、無理強いはできねえだろ。別の手段を考えるまでだな」

「そうは言っても、前世の記憶を持ってるのは先輩だけだからなあ。住んでた場所を特定するには、それを頼りにするしか……」

「それでも、おまえ美優奈からけっこう重要な情報を聞き出してただろ。海に面した坂がちの地方都市で、高台に高校があるところだっけ。あれで一応、候補地がいくつかに絞れただろ。それを順繰りに回っていけば、そのうち行き当たるんじゃねーか?」

 やたらと楽観的意見を持ち出してくる泉だった。

 確かに、先輩からその話を聞いた日のうちに、僕はネットに上がった全国地図と格闘して、それらしき町を手当たり次第に挙げていき、なんとか三十八か所にまで絞れてはいた。

 そしてリストアップした地名を先輩に見てもらって、覚えがないか確認してもらったんだけど、「これかもしれない」「いや、こっちだったかも」「あーん、わかんなーい」と、曖昧模糊な答えしか得られず。

 そもそもこのリストだって抜けがたくさんあるかもしれないし、先輩の言った記憶だって、確かである保証はどこにもない。今ひとつ信憑性に欠けるデータにしかならなかった。

 衛星写真や、街の画像を見せても、先輩は首をひねるばかりで、これぞといった明確な回答は得られていない。

「実際に行けば何かわかるかも」とは、伊勢原先輩本人の口からも囁かれた言葉だけれど、北は北海道から南は沖縄まで、候補地は全国各地に散らばっていて、とてもすべてを巡るのは不可能だった。

 だからこそ、今回こうして先輩の寝言調査を目的とする合宿を企画したわけだけれど。

「そこでだよ、圭太。おまえ今日、新しい情報を美優奈から仕入れてんじゃねえか」

「新しい情報?」

 僕は首をひねる。何のことだろう。何も手がかりを得たという実感はないんだけど。

「美優奈の前世だった人間が、自殺で死んだかもしれないってことだよ」

「ああー……、そのことか」

 でも、それはあくまで僕の推測の話であって、それこそ全然確かな情報じゃないのに。

「確かな情報なんて、今までに一つでもあったかよ? いいか、圭太。俺たちはなあ、消滅しかけの美優奈の記憶を頼りに、実在する場所を探し当てようとしてんだよ。今さら情報の正確不正確は問題じゃない」

 言われてみれば、その通りかもしれない。

 僕は今まで、伊勢原先輩の話はすべて真実という大前提の上で、物事を考えていたところがあった。

「でも、たとえ伊勢原先輩の前世だった人が自殺していたとして、それと街の特定に何の関係が……」

 そう問いかけながら、僕もはっと気がつく。

「関係あるだろ。死んだ年は十七年前ってわかってるんだぞ。その年のニュースを調べれば、高校生が車に飛び込んで自殺したなんて事件、よほどのことがない限り報道されてるはずだ。少なくとも地方ローカルではな」

 つまり、この三十八か所の候補地の所属する県――内陸県を除くほとんどすべてが該当するけど――のローカルニュースを調べていけば、いつかは必ず先輩の前世の人が死んだ事件にぶつかるってことだ。

「でも、十七年前のニュースの記録なんか、今でも残ってるのかなあ」

「探してみるしかないだろ。実際に現地に行くとなると、いちいち美優奈を連れていかなきゃならないから面倒だが、情報の収集だけなら人海戦術でなんとかなる。文芸部のみんなに手伝ってもらって、インターネットで当時のニュースを調べよう。おそらく一週間もあれば、全部調べられる」

 なるほど。泉のおかげで、今まで不可能だと思えていた伊勢原先輩の「前世の地元探し」の展望が見えてきたような気がする。

 泉もたった今思いついたような様子だったけれど。

「泉って、意外と頭いいんだなあ」

「意外とって何だよ、おい。おまえよりは地頭いいっての」

 僕たち二人は、そうやって楽観して笑い合った。

 

 しかし、ほどなく僕は思い知ることになる。

 伊藤先生が言っていた「夢は自分の潜在意識を表す」という言葉の本当の意味を。

 その日の晩、僕は眠りに落ち――、

 夢の中で、あの龍の神様と出会った。

 

                                ☆

 

 気がつけば僕は真っ白な空間のただ中にいた。

 暑くもなく、寒くもない。まるで柔らかな布団に包まれているような、心地よい感覚だった。

 きっとそれは間違っていないのだろう。僕はこれが夜、寝ているあいだの夢であることに、すぐに気がついていた。

 そして、その何もない空間の中で、それは僕のすぐ目の前に存在していた。

 金色に光るうろこを持つ、大きな躯体の龍の神様。

 顎に生えた、一本一本が針金のように太い立派な白い鬚は、現実のものとしか思えないほど詳細な質感をたずさえている。

 僕は、それが自分に用があって現れたのではないだろうと思った。

 僕にとってこの存在は、伊勢原先輩を現世に生まれ変わらせた張本人なのだ。

 そいつが夢に干渉して僕に話しかけてこようというのなら、何としても先輩のことについて聞き出さなければいけないと思った。

 だから僕は開口一番、ヤツが何か言うより先に、こう問いかけてやったんだ。

「おまえが、伊勢原先輩を生まれ変わらせたのか」

「否。わたしは貴様が想像の中で作り上げた幻想の産物だ」

 即否定された。

 しかし、ずいぶんと正直なことを言うヤツだと思った。自分はただの幻影だときたか。

 でももし幻影なら、どうして創り主である僕に向かって反論してるんだ。矛盾してるじゃないか。

「それは、貴様が無意識にわたしを創り出しているからだ。夢が潜在意識を表出させるものだということは、貴様もよく理解しておろう」

「つまり、あんたは僕の無意識の産物。今、僕は自分の無意識と対話しているということか」

「その通りだ」

 龍は、大きな鼻孔からスッと息を吐いた。その声は、どこか得意げであるように聞こえた。

 僕には不思議と、そいつが嘘をついているようには思えなかった。すべてを信じさせるような威厳と神性が、その龍にはあった。

 自分の無意識――要するに超自我との対話か。

 自分の考えていることは、自分が一番よく理解していると思っている。その上で、僕はいったい無意識(こいつ)に何を聞くべきなのだろう。

 自分の知らない自分のこと? でも、それが何なのかがわからない。

 そもそもこいつは、いったい何を伝えるために、僕の前に現れたのだろう。

「貴様は疑っている」

 と、無意識は言った。「不確実な事柄に基づいた不確実な検証と、それによって得られるであろう結果を、疑っている」

「伊勢原先輩のことか」

「そうだ」

 それは――、確かにその通りだ。今のままでは何もかもが漠然としすぎていて、それが正しい答えに結びつくとは、とても思えない。

 でも、そんなのはあたりまえのことで、無意識に言われるまでもなく、自分でも重々自覚している。

 しかし龍は、言葉を続ける。

「そして貴様は、より確かな手段があることを知っていながら、それすらをも疑っている」

「なんだって?」

 今度ばかりは予想外な発言で、僕は思わず尋ね返してしまった。「より確かな手段がある? 僕がそれを知ってる?」

「そうだ」

 と、龍は答える。

「貴様は自分の直感を、過小評価している」

「直感?」

 いきなり出てきたその言葉に、僕は首をひねる。

「自分の書いた小説の内容が、伊勢原美優奈の境遇とぴったり合致していたという『現段階での唯一の確定的事実』があるにもかかわらず、貴様はそれを単に偶発的な事象と決めつけ、ひたすらに小説を事実に摺り寄せることばかりを考えてきた」

「ちょっと待て」

 僕は慌てて龍の言葉を遮る。

「そんなの、あたりまえのことじゃないか。僕の小説と先輩の境遇が重なってたって言ったって、あれはただのまぐれ当たりであって……」

「まぐれ当たりではない。貴様もすでに承知しているはずだ」

 不意に、龍が怒鳴るような剣幕になって言った。

「伊勢原美優奈の命運は、すでに貴様の意志に内包されている。彼女自身が、貴様を描き手に選んだのだ。わかるな。貴様が真実を描写するのではない。貴様の描写したことが、すなわち彼女にとっての真実になるのだ」

「意味がわからない。どういうことだ」

 いや、言葉の意味は理解したが――そんなの、屁理屈以下の戯言だ。

 僕の創作が、そのまま伊勢原先輩にとっての真実になる?

 それじゃあ何か。あのリストの三十八か所の地名の中から、僕が適当に「これ」と言って選んだら、

 それがまさしく先輩の前世に住んでいた場所になるってのか。そんなわけあるか、ばかばかしい。

「ただ選ぶだけでは、真実とはならない。その時点ではまだ『選び直す』ということもできるからな。だが……」

 そこで龍は続く言葉を強調するかのように、一呼吸間を置いた。

「貴様が小説として書き記すことで、その選択は確定する」

 不思議なことに、その言葉だけは、僕の心に、妙な説得力を持って響いた。

「僕は……信じない。そんな当てずっぽう任せの解決法なんて」

 それならもし、僕があのリストにない地名――たとえば「岐阜」のような、明らかな内陸の地名を選んだら、どうなるんだ?

 その時点でおまえの理論は破綻するんじゃないのか?

「選べない。なぜなら貴様が現実に認知している土地の名を使用すると、小説内での整合性が取れなくなるからだ。整合性のない物語は成立しない。成立しない物語は、真実を表象しえない。その時点で、貴様は伊勢原美優奈の描き手から除外される」

 なるほど。あくまで物語の整合性を取って、リアリティを持たせることが大前提。

 そうすることで、僕は自然と、先輩にとっての「真実」を創作することができる。

 なんだか道理に適ってるじゃないか。

「書くのだ、相澤圭太。自分の直感を疑うな。伊勢原美優奈を真実に導けるのは、貴様だけだ」

 その言葉を最後に、龍は忽然と姿を消し夢は終わった。

 

 目覚めたとき、外はまだ暗かった。

 隣の布団では、泉がすうすうと割に上品な寝息を立てている。

 宵はまだまだ深く、みんなが起き出してくるまではまだしばらくの時間がありそうだった。

​初稿執筆:2016年

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