top of page

第7章  思い出の町

 

 

 

 イトクマ――漢字で書くと「糸隈」という町に僕たちがやってきたのは、合宿が終わったその日のことだった。

 新幹線で揺られることおよそ四時間、そこから在来線とバスを乗り継いで、ようやく目的地に到着したときには、すでに陽が傾きはじめていた。

 糸隈は、瀬戸内海に面したとある名の知れた都市の、市街地から大きく外れた海岸沿いに位置する一地区の名前で、人口はだいたい三千人ほど。かつては瀬戸内航路の汐待港として発展した港町らしいけど、近隣市に吸収合併されてからは、その名を知る者のほとんどない辺鄙な田舎町として、ひっそりと地方の片隅に存在し続けていた。

 そんな糸隈町は、僕が作った三十八か所の候補地リストからも、もちろん抜け落ちていた。

 それをどうして探し当てたのかというと、言うまでもなく、夢の中に出てきた「無意識の龍」の助言のおかげだった。

 あの日、僕は目覚めてから、夜が明けるまでのあいだに、急いで小説の続きを執筆した。

 作中で取り入れた方法は、泉の提案の通り。先輩の記憶をもとに選び抜いた候補地リストから、十七年前のローカルニュースを片っ端から調べていって、高校生が車に轢かれて亡くなったという事件がないかを調べる。該当する事件があれば、そこがドンピシャだというわけだ。

 だけど僕は、あえて実際のリストには載っていない、「糸熊」という地名をそこに記した。

 理由は、ない。

 なんとなく僕のイメージする港町に似合いそうな名前を考えて付けたにすぎない。言うなれば、「直感」以外の何物でもない。

 だけど僕は確信していた。おそらくこの地名の場所こそが、先輩が前世で住んでいた場所に間違いないと。

 そこまで書き上げた小説を、朝一番に泉に見せて、それから伊勢原先輩にも見てもらった。

 先輩は、糸熊という地名を見て、不思議そうに首をかしげていた。

「……イトクマ? この地名、あのリストには挙がってなかったよね。どっから出てきたの?」

「どこからでもありません。僕の想像上の地名です。心当たりありませんか?」

「いや、そう言われても、これ架空の地名でしょ? 実際にありもしない地名に心当たりも何も……」

「実在しないかどうかは、自分で調べてみてから言うんだな」

 不意に自分の携帯の画面を眺めてポチポチやっていた泉が、そんなことを言った。

「あるぜ。漢字は違うけど、『糸隈』っていう地名が、瀬戸内海に。地図を見ると、確かに海沿いで、坂がちで、ついでに高校がある。美優奈の証言とは一致してる。候補地リストからは、偶然抜けてたんだろう。……検証してみる価値はあると思うぜ」

「本当なの?」

 先輩は驚いて目をしばたかせる。

「それにしても、圭太がやけに自信ありげなのが不気味だ」

 と、泉が渋い顔をして言う。「何があった。どうして自分の直感をそんなに信用できるんだ」

「夢を見たんだよ」

 そして僕は、昨晩見た夢のことを二人に話して聞かせたのだった。

 自分の潜在意識を表象するという龍が現れ、自分の直感を信じろと言われたこと。僕の創り出す物語こそが、先輩にとっての真実になるということ。しかしそのためには物語の整合性をちゃんと意識しなければいけないということ――。

 さすがに夢の中の話とあって、伊勢原先輩はどうにも疑い深げな様子だったけれど、一方の泉はさもあっさりと、

「よし、それじゃあいっちょ行ってみますか!」と言った。

 泉に話が通じた理由はなんとなくわかる。こいつはもともと、直感だけで生きているようなやつなのだ。

 そんなこんなで、僕たちは合宿が終わったその日のうちに、勇太さんにも事情を説明し、新幹線に乗り込んで、瀬戸内地方の片田舎へと出かけることになったのだった。

 伊勢原先輩は渋面を作りながら、合宿が急遽一泊延長になったと家族に連絡を入れていた。

 それにしてもハードスケジュールだ。

 

                                ☆

 

 朝、新幹線に乗り込んだときから訝しそうで、在来線に乗り換えても曇った顔つきが晴れることがなかった伊勢原先輩の表情は、路線バスが糸隈町のバスターミナルに着いたとき、にわかに劇的な変化を見せた。

「あ……」

 バスを降りて、ロータリー周辺の景色を見渡す。そのときの先輩の目には、驚愕の色が浮かんでいた。

「やっと着いたか。長旅だったなー」

 勇太さんと泉が、続けてバスのステップを下りてきて、うーんとあくびをしながら、思い思いのストレッチをする。

「どうだ、美優奈。見覚えはあるか?」

「……ある」

 なんともなしに聞いたような言葉に返された、伊勢原先輩の焦燥感に満ちた答え。

「見たことある、この景色。病院も、学習塾も、文房具屋さんも、学校も。全部、知ってる」

 先輩につられて、僕もきょろきょろと辺りを見回す。

 糸隈は、確かに僕のイメージしていた作品の舞台――坂がちな港町の風景を、そっくり丸写ししたような、風光明媚なところだった。

 細長い弧状の海岸線に沿って開かれた、山裾にへばりつくような町並み。

 僕たちの今いるバスターミナルは、あたりまえだけど町のちょうど中心部にあるらしく、病院や学習塾、また市役所の出張所――かつては町役場だったんだろう――などの大きな建物が、狭い範囲に集中して立ち並んでいた。

 かつては鉄道が敷かれていたらしく、今はバスターミナルになっている建物の隅のほうに、プランターの並んだ旧ホーム跡と、線路の切れ端のようなオブジェが残されている。

「どうやら、本当にあたりだったみたいだな」と、泉はまるで自分の手柄のように満足げ。

「夢を、見てるみたい」

 伊勢原先輩は、苦しそうに「うぅ」とうめいて、右手で自分の胸のあたりを抑えた。

「この町に、昔住んでたことがある」

 

                               ☆

 

 この町の病院は、海岸の堤防沿いを走る幹線道路(国道だと聞いた)の沿道にあって、その脇で、坂の上の学校へと続く細い通学路が合流している。「糸隈漁港」と名のついたその交差点には、歩行者用の押しボタン式信号機があり、幹線道路の交通量の多さを物語っている。

「ここだ……間違いない」

 その交差点の信号の下に立って、伊勢原先輩は茫然と呟いた。

「ここが、オレの死んだ場所だ」

 僕たちは、何とも言えなくなってしまって、思わずうつむく。

 自分の死んだ場所を見るのって、どんな気分なんだろう。当時の記憶は残っていないにしても、相当いやな気持ちになるんじゃないだろうか。

 なにしろ十七年前の交通事故だ。もちろん当時の事故の痕跡なんてまったく残ってないし、電柱の陰を見ても、もはや花も供えられていない。

 それでも交差点をじっと見つめる伊勢原先輩の目には、何かが映っているのだろう。

 僕たちには見えない何かが。

「相澤くん、ありがとう」

 僕のほうには目を向けずに、じっと交差点の真ん中を見つめたまま、やがて伊勢原先輩がぽそりとそう呟いた。

「ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」

 実際の心持ちがどういうものであれ、先輩がここへきてよかったと思えるなら、それ以上のことはないと思った。

 

                               ☆

 

 先輩が、かつて住んでいた家の場所を覚えていると言ったので、そこへ案内してもらうことになった。

 なにしろ今回の旅の最終目的は他でもなく、先輩の前世だった人の妹さんを探すことなのだ。

 当時三歳だった妹さんは、今はおそらく二十歳くらい。この町にまだいるかどうかはわからないけど、会いたかったら実家へ行くのが一番手っ取り早い。

 バスターミナルの脇から続く、一〇〇メートルほどの小ぢんまりとしたアーケードの商店街があった。

 名前はそのまま糸隈商店街というそのアーケードの中ほどに、先輩の住んでいた家があるという。

 そのアーケードの入口に立って、先輩は懐かしさに声を滲ませた。

「こんな小さな商店街だったんだ」

 まるで幼少の頃に住んでいた思い出の場所に、二十年ぶりくらいに訪れた大人のような呟きだった。

「入ってすぐのところに豆腐屋さんがあって、学校帰りによくコロッケを買って食べてたんだよ」

 残念ながらその豆腐屋さんは今はなく、店の入口にはシャッターが下りていた。

 やはりここみたいな小さな町では、個人店舗を経営していくのもなかなか難しいのだろう。

 ここまで乗ってきたバスの沿道には、大きなショッピングモールのような建物も見えたから、その影響が大きいのかもしれなかった。

「魚屋さんと花屋さんは、今もまだあるね。店主の名前は覚えてないけど」

 先輩は、濡れたタイル張りの商店街の中を、ゆっくりと歩を進めていく。

 休日だというのに、僕たち以外に通行人の姿はなく、さながらゴーストタウンの様相だった。

 商店街の中ほどで、先輩はぱたりと足を止める。そして見上げた、金物屋隣の建物。

 どうやらそこは、旅館のようだった。

 江戸時代からあるような、純和風の古めかしい家屋。入口には「いとくま旅館」と大きく筆書きがされた木札が掲げられている。

「ここなのか?」と泉に聞かれ、先輩は深くうなずく。

 それでも、一向に足を踏み出すことはできなかった。いよいよ緊張しているのだろう。

 おしまいには、「代わりに開けて」と、泉の背中の後ろに隠れてしまう始末。

 ――ああ、いいなあ。僕も先輩に、背中の後ろに隠れてもらいたい。

「仕方ないな」と言いながら、勇太さんが前へ進み出て、玄関の引き戸を開いた。

 こういう家は、たとえ商店街の真っただ中にあっても、呼び鈴もなければ鍵もないことがほとんどで、勝手に開けて、「ごめんくださーい」とでも言うのがしきたりなのだ。

 だけどこのときは「ごめんください」と言う必要もなかった。

 扉を開けたすぐ玄関の石畳に、今まさに外に出かけんとしている女の人が、ちょうど立っていたからだ。

 その女の人は、重厚な日本家屋から出てくるには相当不釣り合いな見た目をしていた。

 もとの顔が判別できないほどの厚化粧、脱色したロープみたいな髪、そしてきらびやかに光り輝く装飾品の数々。

 年齢は若く、二十歳くらいだろうけど、おそらく学生ではない。だからといって、まっとうな職業についているようにも見えない。

 一言で言ってしまえば、上品なお嬢様である伊勢原先輩とは、対局に位置するような女性だった。

「あれ、お客さん?」と、女の人は僕らを一目見てそう言った。

 言ってしまってから、「いや、子供じゃん。子供がうちに何の用?」と言って、ギャハハハと下品に大笑いした。

 あまり僕の好きになれそうなタイプじゃないな、と思った。

「いえ、ちょっとここで会いたい人があって……」

 と、勇太さんが説明しようとするも、相手の女性は聞く耳を持たず、

「ごっめーん。あたし今から遊びに行くところじゃけえ、用があるなら中のおばちゃんに言っといて。あの人、あたしのお母さんじゃけえ。ほんじゃね!」

 そう言って、そそくさと靴を履いて出ていってしまった。

 その間、伊勢原先輩は一言も言葉を発せず、ただ驚愕に目を丸くして、茫然と立っていた。

 女の人が去ってしまってからも、しばらくはそうしていた。見るに見かねた勇太さんが、先輩に声をかける。

「おい、そろそろ中へ入ってみないか?」

「妹です……、今の」

 衝撃的な事実が先輩の口から告げられる。

 だけど、僕たちもうすうす感づいてはいた。

 年齢的に見てもぴったり二十歳くらいだし、先輩が「自宅」だと言ったこの旅館を「うち」と呼び、中にいる人を「お母さん」だと言った。

 これだけの事実が揃っていれば、彼女がこの家の娘――先輩の前世だった人の妹だと、いやでも認めざるを得なくなる。

 そして、当の伊勢原先輩が迷いなく断言した以上、間違いないのだろう。

「名前も聞けなかった。……名前、聞きに行かなきゃ」

 きびすを返して、さっきの人を追いかけて駆け出そうとする伊勢原先輩の腕を、勇太さんが急いで掴んで引き止めた。

「おい、落ちつけよ。今、行って呼び止めても、反感食らうだけだぞ。自宅はわかったんだ。もし今回会えなくても、コンタクトを取れる機会は今後いくらでもある。まずは中に入って、いろいろ話を聞こう。おまえのお母さんがいるらしいじゃないか」

 伊勢原先輩は、勇太さんの掴んだその手を無言で振りほどいた。しかし、それ以上女の人を追いかけようとはしなかった。

 冷静になって考えてみれば、勇太さんの言う通りだ。

 住んでいる場所がわかった以上、電話をするなり手紙を出すなり、連絡をとる手段はいくらでも見つけられる。

 それすらもわからなくなっているというのは、やはり相当に動揺している証拠だろう。

 伊勢原先輩は、振りほどいた自分の手を、くちびるを噛みながら苦々しげに見つめていた。

 

                            ☆

 

 敷居をまたいで土間に上がり、今度こそ「すみませーん」と声をかける。

 三度ほど呼んだところで、「はーい」と返事があって、階段を下りてくる足音。

 現れたのは、割烹着姿の、旅館の女将さんらしい六十歳くらいのおばあさんだった。

「いらっしゃいませ。ご予約はされてましたかね?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」

 勇太さんが答える。おそらくこの人が、さっきの女の人が言っていた「お母さん」――伊勢原先輩の前世だった人の母親に当たる人なのだろう。

 しかし先輩は、さっき妹さんと会ったときのような露骨な態度の変化は見せなかった。

「両親のことはほとんど記憶にない」と、以前、先輩の口から聞かされたことがある。

 理由はわからないけど、あまり両親に対しての思い入れは強くなかったらしい。

 先輩は、やはり妹に会いたい一心で前世の記憶を必死に繋ぎとめていたのだ。それだけに、さっきのような再会の仕方では、心残りが大きいことだろう。

「十七年前にこの町で起きた交通事故について教えて欲しいんです」

 勇太さんが単刀直入に用件を切り出す。

 てっきり妹さんのことについて尋ねると思っていた僕は、びっくりしてしまった。

 先輩も、今度は大きな反応を見せる。ごくりと唾を飲む大きな音が、先輩の喉もとから聞こえた。

「十七年前……事故。もしかして、うちの息子のことですか?」

 にわかに、女将さんの表情が暗くなったのがわかった。

「申し訳ありませんが、そのことはうちの家庭の問題ですんで、よその方にお話しすることはできません。うちに泊まる気がねえんじゃったら、どうかお引きとりください」

 言葉尻は丁寧だが、断固たる拒絶の意志が感じられた。僕たちはその言葉に気圧されるまま後ずさり、一礼して外へ出た。

 

                            ☆

 

「なんでいきなりああいうこと言うかねえ」

 商店街、バスターミナルのほうへ戻りながら、泉がぶつくさと文句を言った。

「もう少し、順序ってもんがあるだろ」

「うるせえな。文句言うなら、自分が言えばよかっただろ。十七年も前の事故のことだ。もっとこう、気軽に話せる感じになってると思ったんだよ」

「何年経とうが、我が子を亡くした事故ですからね。そうそう心の傷は癒えるものではないのかもしれません」

 僕も泉に同調しておいた。さっきの勇太さんの切り出し方は、僕から見てもあんまりだと思ったし、そもそも伊勢原先輩が本当にあれを望んだかどうかもわからない。僕たちはあらかじめ女将さんに何を聞くか相談してから、玄関の扉を開けるべきだったのだ。

「おい、美優奈。おまえもなんか言えよ。当事者のおまえが黙りこくってるから、こんなことになってんだろ」

 勇太さんが、いつになく強い口調で伊勢原先輩に詰め寄る。

 しかしそれでも、先輩は口もとをきゅっと堅く引き結んで、何も喋ろうとはしなかった。

「……おい。おまえ、今日なんか俺のこと避けてねえか?」

 勇太さんがいきなりそんなことを言った。

 そう。気づかないはずがなかったのだ。幼少のころからずっと、誰よりも先輩の近くにいた同級生の勇太さんが、あるいは異性として好意を抱いたことがあるであろう彼が、今日の彼女の小さな変化に。

 確かに、今朝勇太さんと会ってからの伊勢原先輩の態度は、明らかにいつもと違っていた。そのことは僕も気がついていた。

 話しかけられても返事をしないし、視線を合わせようともしない。

 ただそれは、少なくとも僕の目には、嫌いだから冷たくしているというより、勇太さんのことを怖がって避けているかのように見えた。

 しかし勇太さんにとっては、伊勢原先輩から距離を置かれているという点においては、どちらも同じこと。苛立ちを隠せない口調で、彼はさらに言い募った。

「俺が何か気に障るようなことしたか? 原因があるなら言ってくれよ、謝るからさ」

「そんなつもりはないよ、ごめん……」

 やがて伊勢原先輩は、ひどく弱々しい声でそう答えた。

「勇太にそう思わせるようなそぶりをしてしまってたんなら、謝るよ。ごめんなさい。悪気があったわけじゃないんだ。ただ……、」

 そこで先輩は伏し目がちだった顔を上げて、おそらく今日のうちで初めて――勇太さんの目を直視して、正面から向き合った。

 

「勇太を見てると、悲しい気持ちになる」

 

「なんだよ……それ」

 伊勢原先輩の口から出た「悲しい」という言葉が、ふと僕の頭の中で、とある記憶と唐突にリンクした。

 ――死にたいって思うくらい、絶望的な悲しい気持ち。

 合宿の晩、先輩が僕に告げた言葉だ。

 そして催眠術のときに口にした「ユウタくん」という名前。

 ――どうしてわかってくれないの。どうして仲良くしてくれないの、ユウタくん。

 やはりあれは、この平林勇太さんのことだったんだろうか。

 そうだとすると、あのとき先輩が見ていた夢は、前世の記憶ではなくて、今いる伊勢原先輩自身の過去の記憶だったのか?

 ちなみに、勇太さんにはそのことをまだ伝えていない。隠していたんじゃなくて、言うタイミングが見つからなかっただけのことだけれど。

 でもこうなってくるともう、言わないほうがいいのかもしれないと思えてくる。

「美優奈、おまえもしかして、昔のこと――」

「とにかく! こうなったからには仕方ねえ。今日のところは一旦引き上げるぞ。明日になったらさすがにあの妹さんも戻ってくるだろうから、そっから話を聞こう。歳が近い分、まだ話が通じるだろ」

 泉が、まるで何かを言いかけた勇太さんの言葉を強引に遮るかのように、やけっぱちのような口調で言った。

「もう時間も遅いし、バスで市街地まで戻るぞ。勇太、おまえ街中のビジネスホテル予約してるんだよな? なんていうところだ?」

「……ああ。ホテルの名前は確か――」

 そのやり取りを聞いていて、ふと、僕の頭に強烈な違和感が突き刺さる。

 ――ホテル? なんでわざわざ市街地に戻ってホテルに泊まる必要があるんだ?

「そこに泊まればいいんじゃないですか?」

 さっき出てきた「いとくま旅館」の入口を指さしながら、僕は言う。

「だってそこ、旅館ですよね。泊まればいいじゃないですか。女将さん、言ってたじゃないですか。うちに泊まる気がないならお引きとりくださいって。泊まる気があるなら、泊めてくれるんじゃないですか?」

 そもそもわざわざ糸隈から離れた市街地のホテルを予約したのは、インターネット上で糸隈地区内の宿泊施設が見つからなかったからに他ならない。糸隈に泊まれるところがあるのなら、わざわざ市街地に戻る必要はない。しかもそこが目的の場所となれば、なおさらそこに泊まらない理由はない。

「それもそうだな」と、賛成の泉。「勇太、予約したホテルのキャンセルはできるのか?」

「いや、予約って言っても、電話で部屋をとってもらってるだけだから、金はまだ払ってない。キャンセル料も発生しないはずだ。しかし飛び込みで泊めてもらえるかな。一応まだ連休中だぞ」

「大丈夫だと思いますよ。だってさっき僕たちが入ったとき、女将さん『いらっしゃいませ、ご予約はされてましたかね』って言いましたよ。

これってつまり、部屋がまだ空いてるってことじゃないですか?」

 そもそもこんな、観光地でもなければろくに企業も立地していない片田舎の旅館なんて、連休だろうがなかろうが関係なく人はこないだろう。

 戻って聞いてみる価値はありそうだった。

「バスの時間まではまだ余裕があるな。いっちょ行ってみますか」と、泉が言う。

 僕たちは、またもときた道を引き返し始めた。

 

                       ☆

 

 僕たちが再びやってきたのを見て、女将さんは最初、怪訝そうな顔をしたけど、泊まりたいんですと言って揃って頭を下げると、少しだけ態度を軟化させた。

「ええ、ええ。泊まりたいちゅうお客さんは、もちろん泊めてさしあげますよ。こちらも商売ですけんね。空いとる部屋を空いてねえちゅうて嘘つくような真似は致しません。でも、個人的な話はあまり聞かんとってくださいね」

 ぶつくさと呟きながらも、丁寧にスリッパを出され、階上の部屋へ案内される。

 その途中で、泉が女将さんに尋ねた。

「娘さんがいらっしゃるんですね。さっき玄関のところで会いましたよ」

 そしてこう付け足す。「きれいな人だったなあ」

「そんなことはねえが」と、言いながらも女将さんは表情を綻ばせる。

 自分の子供をよく言われて、いやな気持になる親はまずいない。泉はそのことをわかって言っているのだ。

「遊んでばーで、ちっとも勉強しやせんと。しまいには水商売なんか始めようてからに。本当にしょうもねえ娘じゃが」

「名前は、なんていうんですか?」

「娘か? 娘は『あすか』っちゅうんじゃ。ひらがなで『あすか』」

「あすか……」

 階段を上りながら、伊勢原先輩が呟く。「沖岡――あすか」

「そう、沖岡。旧糸隈だけでも沖岡姓は十五軒以上あって、うちも……」

 女将さんが余談とも思えるローカルな話題を続けようとしているあいだに、伊勢原先輩は、何か大切なことを思い出しかけているようだった。

「そして、オレの名前は――」

「ここがお客さんの泊まる部屋じゃけえ。女の方はこっちで寝られね。一人じゃ寂しいかもしれんけど」

「あ、いえ。ありがとうございます」

 すでに布団の敷いてある部屋に通される。

「それにしても、娘さんもかわいそうですよね。物心もつかないうちに、お兄さんが事故に遭っちゃって」

「そうじゃなあ。あの子がやたら反抗的でグレちもうたんは、そのことが大きかったんかもしれんなあ」

 あれ。気がつけば、けっこう突っ込んだところまで話してくれてる。

 泉の話の誘導がうまいのか。女将さんも、意外と一度話しはじめたら止まらない人なのかもしれない。

「そのことで、娘さんは何か言ってますか?」

 泉が聞くと、女将さんはやんわりとかぶりを振った。

「そりゃあ、あの子とは今でもけんかばーしようるよ。なにしろ三歳のときの事故じゃけえ、悟史に――悟史っちゅうのは息子の名前なんじゃけど、あんだけ可愛がってもろうとったんも覚えとらんけんね。いつまでも高い金払い続けて病院に入院させとくのはやめえ言うて反対しとるんじゃ」

「え……!?」

 ぽっかりと口を開け、唖然とする伊勢原先輩。

 僕を含めたあとの三人も、同じような顔をしていたと思う。

 沖岡悟史という名前が判明した以上に、衝撃的な事実が女将さんの口から飛び出していた。

「相手方の保険会社から慰謝料は頂いとるけどね。やっぱり家計にも負担はかかってくるし。そのせいで娘には大学も行かしてやれんかったけん。そこは悪いと思うとるよ。でも母親として、腹を痛めて産んだ子供を見殺しにするなんてことは、どうしてもできんのじゃ」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」

 と、伊勢原先輩が女将さんの言葉を遮って尋ねる。「入院って……生きてるんですか? 息子さんは、十七年前に亡くなったんじゃないんですか?」

「亡くなっとりゃあせんよ。悟史はまだ生きとる。お客さんじゃけ言うて、適当なことを言ようたらいけんよ。ただ、後遺症があって、口も利けん状態じゃけどね」

「それで、病院にずっと入院してるんですか?」

 泉の問いかけに、女将さんは深く首肯する。

「そうじゃよ。事故にあったその日からずっとな。口は利けんけど、体はちゃんと生きとるんじゃ。親として、見殺しにすることはできん」

「あ、あ、あ、会わせてくださいっ!!」

 女将さんを布団の上に押し倒す勢いで、伊勢原先輩が掴みかかった。

 

                         ☆

 

 すでに面会可能時間ぎりぎりとなっていたが、女将さんは「かまわない」と言った。

 ただでさえ病室の少ない田舎の小さな公立病院の個室を十七年間も占有し、もはや特別扱いのようになっているので、多少の融通は利くというのだ。

 だから僕たちは女将さんの手を引いて、交差点横の病院へと走った。

「あれ、――ここって病院じゃないの?」

 合宿の夜、若岡さんの催眠術から目覚めた先輩が最初に口にした言葉だ。先輩は夢の中で、病室のベッドで眠っていたと話した。

 泉はそれを聞いて、「伊勢原先輩の前世だった人は、実はまだ生きていて、意識不明の状態で病院にいるのかもしれない」という仮説をでっち上げた。

 それは単なる泉の妄想だったはずなのだけれど、実際のところ、ほとんどその通りになってしまっていた。それこそ、まぐれ当たりというやつだろう。

 さすがに、この世界はその人が作り上げた夢でしかない、というトンデモSFストーリーにまでは発展しなかったけれど。

 僕たちは、先輩の前世だった人――もうこの呼称は適切ではないかもしれないけど――に会いに行くため、女将さんに先輩のことを話した。

「実は、わたしにはあなたの息子さんの記憶があるんです」と。

 もちろん、はじめのうちは女将さんも信じてはいなかった。あたりまえだ、そんな非現実的な話。

 息子の無事を信じて奇跡を祈るには、十七年という年月は、あまりにも長すぎたのだ。

 女将さんは言った。息子の記憶があるのなら、息子しか知らないことを答えられるだろうと。

「母親であるわたしの名前は?」から始まり、いくつかの質問を投げかけられたが、結局、伊勢原先輩はひとつも答えることはできなかった。

「わたしの中に残っている記憶は、とても薄弱で曖昧なものです」

 先輩は、震える声でそう言った。

「でも、その記憶を頼りに、わたしたちはこの町へやってこれたんです。これはきっと意識を失った悟史さんが、なんとかして自分の存在意義をこの世に残そうとした結果なんだと思います。お願いです、わたしを悟史さんに会わせてください! それ以上のことは望みません」

 頭を下げたのは伊勢原先輩だけじゃない。僕も泉も勇太さんも、みんな床の間に頭をついて女将さんに懇願した。

 それを見て、ようやく女将さんは渋々ながらも僕たちを病院に連れていくことを承諾したのだった。

「あなたの言うことを信じたわけじゃありません」

 と、女将さんは前置きしつつ、

「お客さんに土下座をさせる女将がどこにおりますか。わたしは商売人として、責任をとって、あなたたちの願いを聞いてさしあげよう思うとるだけです」

 と言った。

 

                               ☆

 

 女将さんの言った通り、面会の受付はスムーズに済んだ。

「お連れの方たちは?」と聞かれたときには、「親戚の子たちです」の一言ですんなり信用してもらえた。

 病院は、四階のない四階建て。つまり最上階は五階になるのだけど、その一番奥の個室に、沖岡悟史さんは入院しているのだそうだ。

 案内する看護師さんの後ろを歩きながら、伊勢原先輩はどうにも緊張を隠せない様子だった。

 無理もない。これから「もう一人の自分」と会いに行こうというのだから。

 先輩が悟史さんと会ってどうするつもりなのか、僕は知らない。おそらく本人だってわかっていないだろう。

 なにしろ相手は十七年間もずっと眠り続けている意識不明患者なのだ。会ったところで話をすることも、今まで募らせてきた想いを伝えることもできない。

 それでも、ここで会っておかないと一生後悔するだろうと思えたし、もし仮に僕が先輩の立場にあったとしても、会わずに帰るなんてことは絶対にできなかっただろう。

「こちらの病室になります。面会時間は、午後五時半までです」

 そう言って、看護師さんは小ぎれいな病室の引き戸を開ける。扉は音もなく開く。

 女将さんは、慣れたように看護師さんに会釈をして、病室に足を踏み入れる。僕たちもその後に続いた。

 思ったより開放感のある、広い個室だった。

 まめにお見舞いにくる人がいるのだろう。色とりどりの花が生けられた花瓶が窓際に置かれている。

 その広い部屋の真ん中に、棺のようにまっすぐ置かれたベッドがあり、その上に男性が横たわっていた。

 点滴と排尿器具はつけられているが、呼吸は自力でできているようで、すうすうと安らかな寝息が鼻から漏れているのが聞こえる。

 目を閉じているからか、ごく浅い普通の眠りについているようにすら見える。

 頬は骸骨のように痩せこけているが、髭は毎朝剃っているようで、むしろ柔和で幼さの残る顔つきは、どう見ても三十代の男性には見えなかった。まるで十七歳の高校生が、そのままの姿で歳をとってしまったかのようだ。

「十七年間、ずっとこの状態なんですか?」

「ずっとこのままじゃよ。ちゃんと息をしようるし、メシも流動食を食わせよる。いくら意識が戻らんいうて、むざむざ死なすなんてことはできん」

 女将さんは悲しげ――というより、どこか憂鬱そうな顔をして、大きくため息をついた。

「少なくとも、わたしが死ぬより先に、この子を死なすことはせん」

「どうだ、美優奈。念願の、もう一人の自分に会えたわけだが、何か思うことはあるか?」

 と勇太さんが尋ねても、伊勢原先輩はただ横になった男性――悟史さんの顔を食い入るように見つめるだけで、何も言おうとはしなかった。

「奇跡ってやつを信じるならさ――、」

 今度は、泉が口を開く。

 そして、彼の口から飛び出したとんでもない言葉に、僕は生まれてはじめて「殺意」のような感情を抱くことになるのだった。

 

「美優奈がこの人にキスのひとつでもしてやれば、目覚めるんじゃないか?」

 

「なっ、なんてこと言うんだ、泉!!」

 その言葉に激高してしまい、僕は思わず泉の肩に掴みかかった。

「訂正しろよ。言っていいことと悪いことがある」

「冗談だよ、悪かった」

 泉はすぐに僕の手を払いながら、面倒くさそうにそう言った。

「だけどさ。話としてはそれが一番面白いだろ。なあ、圭太。おまえがこの物語を小説にするとしたら、結末はいったいどうするよ。決着を、いったいどこに持っていく?」

 そう訊かれて、僕は思わずたじろいでしまう。

 泉の言う通りだ。

 この物語は、もしかしたら結局のところ、失敗作なのかもしれない。

 先輩は実際に前世――という言い方はもはや適切ではないけれど――に住んでいた町にきて、ずっと会いたいと願っていた妹と再会した。

 だけど先輩の前世だったはずの人は、本当は死んでいなくて、でも半分死んだような状態の植物人間になっていて。ずっと入院している自分のことを、妹は忌々しく思っている。昔慕ってくれていたことも全部忘れて、入院費ばかり食って家計を締めつける兄のことを、見殺しにしてやりたいと思っている。

 何の辻褄も合っていない。

 誰も救われない。ここで何も変わらなければ、僕たちは、そして先輩は、ただ冷やかしにきただけの、思い上がった脇役だ。

 女将さんは、死ぬまで悟史さんの面倒を見続けるだろう。でもそのあとには、絶望的悲劇が待ち受けていることは想像に難くない。

 僕ならば――僕だって、奇跡が起こって欲しいと思う。

 せめてここで悟史さんが目覚めてくれれば、すべてが丸く収まって、物語は大団円に導けるだろう。

 そのためには、何かのきっかけが必要なのかもしれない。

 でも、だからって……。

「――やってみようか?」

 泉の言葉に感化されたのだろうか。悟史さんの顔を見下ろしながら、伊勢原先輩がいきなりそんなことを言う。

 僕は思わず大声を張り上げてしまう。

「やめてくださいッ!!」

 先輩は、驚いたような目で僕の顔を見る。

 彼女もきっと、同じなのだろう。奇跡を起こしたいと思っている。

 奇跡に起きて欲しいと思っている。そのためには、見ず知らずの病人相手に口づけを交わすことすら厭わないと、そういう覚悟を決めている。

 でも、おかしいだろ。なんでキスなんだ? どうしてキスでなければいけないんだ?

 確かに、それが最もわかりやすい、記号的な「儀式」なのは間違いない。白雪姫や眠り姫とった西洋の童話のなかでは、誰もが幸せになるハッピーエンドの「きっかけ」として、その手法が多く用いられてきた。幸せの象徴として、その行為が尊ばれている現実があるのだ。

 ――でも、だからどうした?

 僕だったら、キスはさせない。そんな古臭い童話みたいな終わり方で、みんなが幸せになるなんて認めない。そんな安直な終わらせ方は、絶対しない。

 きっかけは、いくらでも見つけられるはずだ。

 神様。

 もし先輩の命運が、まだ僕の手に、ペンと一緒に握られているなら――。

 まだ作者の称号を剥奪されていないのならば――。

 この物語の結末は、作者である僕自身が決める。

 

「僕が、書きます」

 

 今にも泣きそうな心持ちで、息も絶え絶えになりながら、僕はそう言った。

「今夜、徹夜で。誰もが幸せになるような、ハッピーエンドの結末を。それでいいでしょう。だから、どうかお願いです。今は……」

 それは、ひとつの決意だった。

 僕がその決意を口にした瞬間、自分のなかで、なにかが確定したような気がした。

 それは運命とか未来とか、漠然としたものでしかなかったようだけど、とにかく僕はそのとき、自分の直感が確信に変わったのがわかった。

 ちょうど、己の無意識を自称する龍の神様と夢の中で出会ったあのときのように。

 先輩は少し悲しそうな笑顔で、僕の言葉を拒絶した。

「ありがとう。でも、せっかくここまできたんだもん。せめてあたしにできることはやらせて」

 先輩は、おもむろにベッドの脇に歩み寄ると、木の枝のように細っこい悟史さんの右手を取り、それを持ち上げて両手で包み込んだ。

 けれど、おそらくもうキスまではしないだろうな、と僕は思った。いや、キスをしないことがわかったと言ったほうがいい。

 それはまぎれもなく確信だった。だから僕は、安心して彼女の行動を見守ることができた。

 先輩は、やがて今度は包み込んでいた両手を離し、右手の指を、悟史さんの口もとに近づけていく。

 それはまるで何かの儀式をなぞっているようで、そうすることが最初から決められているかのようだった。

 口もとへ近づけた先輩の指先が、悟史さんのくちびるに触れる直前、先輩がこう呟いたのを、僕の耳は聞き逃さなかった。

 

「……やっと、戻ってこれた」

 

 そして、その手が悟史さんのくちびるに触れた瞬間――、

 

 先輩の体が、いきなり膝から崩れ落ちた。

​初稿執筆:2016年

bottom of page