top of page

第8章  ときにはグリム童話のように

 

 

 

 そこが病院の中だったことが、不幸中の幸いなのかな。

 気を失った伊勢原先輩は、すぐさま担架で運ばれて、MTやらCTやらといった精密検査を受けることになった。

 検査の結果はその日のうちに出された。それによると、脳波、心音ともに異常なし。

 極度の精神的ストレスからくる一時的な失神か、単なる貧血だろうということで、安静にしていればじきに目が覚めるという診断が下された。

 外来受付時間は終わっていたので、一応空いている診察用ベッドを使わせてもらい、気がつくまでそこで寝かせてもらえることになった。

「びっくりしたが。いったい何が起こったんか思うたよ」

 女将さんが言った。僕たちだってびっくりした。まさかあそこで先輩が急に倒れるとは、さすがに思いもしなかった。

「精神的なショックが大きかったんだろうな。何しろ自分が生まれる前に住んでいた町にきて、生まれ変わる前の自分と対面したんだ。そんなの、誰だって混乱する」

「本当にそれだけかな?」

 けんかを売るような目つきで泉が勇太さんに言い、今度は意味ありげな視線を僕に向ける。

 僕だって、わからないわけじゃない。

 気を失う寸前、伊勢原先輩がとろうとした行動の意味を――そして、そのときに先輩が呟いた言葉の意味を。

「やっと、戻ってこれた」

 倒れる直前、伊勢原先輩は確かにそう呟いた。

 ――きっとそこで、何かが起こったのだろう。

 不意に、病院の廊下を駆ける音がする。息を荒立てて、当直のナースが飛び込んでくる。

 完全な予定調和だ。

 彼女は興奮気味に、僕たちにこう伝える。

「五一〇号室の患者さんが――沖岡悟史さんが、意識を取り戻しました!!」

 

 ………………。

 

 ――……ないか。

 先輩の容体を見てくれていたお医者さんが、ゆっくりと口を開いた。

「もう診療の時間は終わっています。彼女は、疲れきって熟睡しているだけです。入院の必要もないでしょう。誰か、家までおぶって行ってあげてください」

 要するに、邪魔だから出ていけと言ってるわけだ。

 先輩をおぶる役目は、僕が非常にやりたかったのだけれど、「僕におぶらせてください!」と欲望に任せて正直に申し出るわけにもいかず、ごく自然な流れで勇太さんにお願いすることになった。

「もしこのまま、美優奈が目を覚まさなかったらどうする?」

 旅館への帰り道、誰もいない暗い商店街を歩きながら、泉が僕にそんなことを言った。

「ならないよ」

 と、僕は自信を持って言う。

「僕がそうさせない。物語はまだ終わっていないんだ。今夜、僕は徹夜して完結させる。誰もが幸せになるような、最高のハッピーエンドで締めくくるんだ」

「期待してるぜ」泉は、ふっと鼻で笑うようにして言った。「くれぐれも、グリム童話みたいな終わり方はなしにしてくれよ」

 そう言われてみて、ふと気がつく。

 目覚めない伊勢原先輩の口に僕がキスして、そうしたら先輩が目覚めるという、そんな成り行きにするのもいいかもしれないな、と思った。

 

                             ☆

 

 その日の晩、僕は宣言通り、みんな寝静まった夜遅くまでスタンドをつけて、小説を最後まで書ききった。

 筆を進めるのは簡単だった。僕はただ、自分の願い、起こってほしいことを書けばそれでよかった。

 僕の書いた物語が現実のものとなるなら、僕はできる限り幸せなストーリーを綴るばかりだ。

 それをできるのが僕だけというのなら、骨身を削ってそれに注力する。

 伊勢原先輩は――作中では「澪奈」という名前だけど――出会った。自分が生まれるより前、かつて自分だった人に。

 出会うことで、きっかけとしては完成した。古ぼけた昔話みたいに、キスをする必要なんてどこにもない。

 手を触れ、くちびるに触れることで、分裂した二つの人格は一つに戻り、悟史さん――作中では「竹中タツヤ」という名前にしていた――は意識を取り戻す。

 目覚めた兄と話すことで、妹は――ずっと入院していた兄をうとましく思っていた妹さんは、かつて優しくしてくれたころの記憶を思い出し、支え合って生きていくことを約束する。

 これですべてがハッピーエンドだ。

 ちょっと安直すぎただろうか。

 ――でも、これでよかったはずだ。

 

                             ☆

 

 夜更けごろまで執筆を続け、小説が完成したのは確か、午前四時を回っていたと思う。

 そのまま朝まで起きていればよかったんだけれど、前日の長旅の疲れもあって、敷かれっぱなしの布団の誘惑に打ち勝てず、仮眠のつもりが結局深くまで眠ってしまった。

 気がつくとタイムワープ。布団から跳ね起きて、枕もとに置いた腕時計を確認してみると、時刻は昼の十一時を過ぎていた。

 さすがにそろそろ支度をしないと、今日中に家へ帰れなくなるかも。

 これはまずいと思い、いそいそと着替えを始めると、ちょうどタイミングを見計らったように、泉が階段を上がって、部屋に入ってきた。

「おう。起きたか、寝坊助さん。昼、食ってから帰るか。心配しなくても夜には帰れるから、別にそんなに急がなくてもいいぞ」

 意外と呑気な言葉をかけられる。

 今、いったいどうなっているんだろう。僕は辺りを見回す。伊勢原先輩は目を覚ましたのだろうか。

 泉の様子を見る限りでは、そんなに急を要する事態にはなっていないみたいだけど。

 どかっと布団の上に座る泉の手には、なぜか僕の小説ノートが丸めて握られている。

 昨日、机の上に広げたまま眠ってしまったんだ。こいつ、勝手に読んだのか。

「完成した小説、読ませてもらったぞ。いいだろ、俺だって文芸部なんだから。うん、なかなかいいんじゃないか? 誰もが幸せなハッピーエンド。現実も、だいたいおまえの書いた小説の通りになってるぞ」

「そうなの?」

 僕は目をぱちくりとさせる。

 そうだとすると、伊勢原先輩は無事に目を覚ましたのだろうか。

 そして彼女だけじゃなく、十七年間ずっと眠ったままだった、沖岡悟史さんも。

 もしそうなら、本当にすごい奇跡が起きたことになるけど。

「ああ、美優奈もついさっき目を覚ましてたぞ。おまえが起きる二十分くらい前だ。よっぽど疲れてたんだろうな。ちょっと寝ぼけてるみたいだったけど、そろそろ着替えも済んでるだろうから、準備ができたら会いにいってやれよ」

「悟史さんは?」

「目覚めたってよ」

 泉はまるでなんでもないことのように言う。

「朝の六時くらいに連絡がきた。女将さん、俺たちに頭下げまくって病院へ向かっていったよ。昨日は失礼なことを言ってすいませんでしたってさ。俺たちは、美優奈がいないとしょうがないと思って、遠慮しといたけど。みんな起きたことだし、後で顔出すのもいいかもな。時間あったらだけど」

 僕はいてもたってもいられなくなり、泉の持っていた僕の小説ノートをひったくると、急いで部屋から飛び出して、伊勢原先輩が眠っていた隣の部屋の襖を叩いた。

 読んでもらいたかった。完成した僕の小説を。奇跡を起こした僕の小説を。

 先輩、僕は約束を守りましたよ。誰もが喜ぶ、幸せな結末を書きました。

 そしてそれが、現実のものになりました。

 できることなら、泉よりも先に読んでもらいたかった。先輩には、一番最初の読者になってもらいたかったんです。あのとき約束したみたいに。

 だから、先輩――。

 襖を叩いても返事はなかったけど、僕は気にせず勢いよく開けた。

 入っちゃダメならダメだって言うだろうし、もし着替え中なら謝って済まそうと思った。

「先輩……?」

 先輩は、そこにいた。

 そこにいたけど、意外なことに、服装は着替えもせずに寝間着の浴衣のままで、窓辺によりかかって、外界に広がる海をただぼんやりと見つめていた。

 僕が部屋に入ってきたのに気がつくと、先輩はゆっくりと顔だけをこちらに向け――、

 そして、こう言った。

 

「あなた、誰?」

 

 ――今度は、僕が気を失いそうになる番だ。

 冗談を言っているのかと思った。むしろそうであって欲しいと思った。

 突然、小説を書いたノートを、窓から海に投げ捨ててやりたくなった。

 塩水に浸され、ボロボロにやぶれて、溶けてなくなってしまえばいいと思った。

 先輩は、再び木の窓枠に肘をついて外を眺め、ひとりごとを呟くように言う。

「ここ、なんていう町? なんであたし、こんな田舎町にいるの? ――あなた、知ってる?」

「さっき目が覚めてから、ずっとこの調子なんだよ」

 いつしか僕の後ろに立っていた勇太さんが、肩に手を置きながらそう言った。

「記憶を……失っているんですか?」

「おそらくは、そんな大袈裟なもんじゃない。だいたい四月から今までの一か月間のことを、部分的に忘れているだけのようだ」

「それじゃあ……」

 声にならない言葉で尋ね返す僕に、勇太さんはうなずきを返す。

「ああ。俺と泉のことは、美優奈はちゃんと覚えてるよ。ただ残念ながら、”きみのことだけを“きれいさっぱり忘れてしまっている」

「そんな……」

 じんわりと目に涙が滲み、やがて堪えきれなくなって頬をつたって流れ落ちた。

 

 ――なんだ、これ……。

 僕は、誰もが幸せになる物語を書いたはずなのに。

 あんまりだ、こんな結末。

 これじゃあいったい、僕は何のために……。

 

「精神的なショックからくる軽度の記憶障害かもしれない。何かのきっかけで、またすぐもとに戻るかもしれないし、戻らなかったとしても、せいぜい一か月だけの記憶だ。今から、いくらでも取り返せる」

 勇太さんは、そんなふうに僕を慰めるけど。

 それでも僕は、先輩と秘密を共有し、約束して、一緒に旅をした思い出を、全部なかったことにするなんて、そんなの絶対に耐えられない。

 

(相澤くんがあたしのこと異性として好いてくれてるのは、素直に嬉しいです。ありがとう)

 

 合宿の夜、先輩に言われたあの言葉が脳裏に甦る。

 月明りに照らされた先輩の悲しげな表情と、細いくちびるから発せられる一言一句が、今、目の前で起こっているみたいに、まさざまに。

(でも、今は誰とも付き合えない。もし前世で住んでいた町に行って、妹に会って話ができたら、何かが変わるような気がする。ふっ切れるっていうか、自分のなかでひとつの決着になるような、そんな感じ。だから、返事は、そのときまで待っててもらっていいかな?)

 ……待ってましたよ。

 先輩からの返事を、僕、楽しみにしながら待っていたのに。

 それが答えですか、先輩。

 全部忘れてしまって、なかったことにする。

 それが、僕の気持ちに対するあなたの答えなんですか?

「どうして泣くの? なにがそんなに悲しいの?」

 伊勢原先輩は、困ったような引き攣った笑顔で、そう言う。

 わからないんですか。自分のその言葉が、どれだけ目の前にいる人間を悲しませているか。

 ――わからないなら、教えてあげますよ。

 なぜ自分がここにいるのか。なぜ僕が泣いているのか。

 ここに、全部書いてあります。

 僕は、窓際に歩み寄り、分厚い小説ノートを先輩に手渡した。

 嗚咽を漏らし、溢れ返る涙を拭い、しゃくり上げながら、必死に伝えるべき言葉を紡ぐ。

「先輩……読んでください。僕の、書いた小説です。初めて、書き上げた小説です。先輩に、読んでもらうためだけに、書きました。だから……読んでください」

 先輩は、困惑顔を浮かべながらもノートを受け取り、それを開いてページに目を落とす。

 やがてその表情に、驚愕の光が宿るのを僕は見た。

「これは――、あたしの話だね。なんかそんな気がする」

 そんな気がする。

 先輩は今、確かにそう言った。

 ということは――。先輩は、覚えていないのだろう。自分が沖岡悟史という人の記憶を受け継いでいたという事実そのものを。

 ただこの一か月の記憶を失くしてしまったというだけではなく。

 おそらくきっかけは、僕が最初に書きかけの自作小説を先輩に読んでもらったことだろう。

 あの瞬間からこの物語は始まり――、そして幕を閉じた今に至るまでのおよそ一か月間の記憶が、先輩の中から全部消えてしまった。

 だから先輩は、僕のことを覚えていないんだ。

「あなた、名前はなんていうの?」

 先輩はそう言って、再び視線を上げて僕の顔を見た。

「相澤です。相澤圭太」

 僕は声を滲ませながら、先輩の問いかけに答える。

「この四月から、先輩のいる文芸部に、新入部員として――」

 改めて先輩に自己紹介をするのは、おかしな気がした。それでもそれをすることで、まだ終わってしまったのではないことを、壊れたのではないことを、やり直すことができることを自分の中で確認できたような気がして、少しだけ気持ちが楽になった。

「相澤くんか。きみは将来、きっと偉い作家さんになるよ」

 先輩はそう言ってうなずき、あの天使のような笑顔を、僕に向けてくれたのだった。

 

「準備できたかー? 沖岡悟史さんのお見舞い行こうぜ」

 ほどなく泉がずかずかと伊勢原先輩の部屋に入ってきて、のんびりとした声でそう言った。

 

                            ☆

 

 さすがに十七年間もベッドの上で寝たきりだと、筋力も弱ってしまって、自力で歩くこともできないのだろう。

 僕たちが悟史さんの病室に足を踏み入れたとき、彼は車椅子に座って、窓の外の海の景色を眺めていた。

 海ってのは、どうやっても人を惹きつける魅力を持っているものだ。

「おはようございます」

「おはよう。よかったら、そのへんの椅子に、適当に腰かけてくれ」

 そう言って、悟史さんはよたよたと車椅子を操り、僕たちのほうへ向き直った。

「ありがとう。母親から聞いたよ。きみたちが俺を目覚めさせてくれたんだって?」

「いえ、僕たちはそれほどのことをしてませ……」

「はい、そうですよ!」

 いきなり泉が僕の言葉を遮るようにして肯定した。

 人がせっかく謙虚な態度をとろうとしているのに、いったいなんのつもりだ?

「全部ここにいる彼女のおかげです。沖岡悟史さん、彼女に見覚えがありませんか?」

 そう言って、泉が伊勢原先輩を紹介する。悟史さんは、先輩の顔をまじまじと眺めてから、こけた頬を吊り上げて笑い、「そうか、きみがそうか」と言った。

「心当たりがあるんですか」と尋ねると、悟史さんはゆっくりと深くうなずく。

「実はね、俺は眠っているあいだ、ずっと夢を見てたんだよ。おかしな夢でね、口にするのも恥ずかしくて憚られるんだが、俺はその夢の中で、女の子として生きていたんだ。育ちもよくて、頭もよくて、見た目もかわいらしい、まさしく俺なんかとは正反対の存ような在だった。いや、もしやとは思ったが、やはりきみがそうなのか」

 その話を聞いて、先輩は少しだけ驚いたような表情を見せた。

 無理もない。今や先輩は、悟史さんの記憶を受け継いでいたことを、忘れてしまって覚えていないのだ。

「俺にとっては夢の中の話だが、きみたちにとっては現実のことなんだろうな。平林勇太くん、泉くん、それに相澤圭太くん。きみたちのことも覚えてるよ。彼女をこの町に導いてきてくれて、本当にありがとう」

「いえ……」

 礼を言われて戸惑ってしまう。

 この人は、どうやら昨日まで伊勢原先輩が持っていて、今は忘れてしまったはずの記憶を、今、おぼろげながら持っているらしい。

 ということは。伊勢原先輩は、ただ単純に記憶を「失った」わけではないのだろう。

 彼女はおそらく、返してしまったのだ。その記憶を本来持つべき人のもとに。

「昨日、きみがきみの中にいた俺を返してくれたおかげで、俺はこうして目覚めることができた。ありがとう、本当に感謝しているよ」

「一方的に返したわけじゃありません」

 ふと、伊勢原先輩が口を開いた。

「わたしも、昨日あなたと出会ったことで、思い出しました。遠い昔に忘れてきた記憶を」

「やはりそうか」

 と、悟史さんはため息をつきながら言う。

「俺の人格が乗り移ったために抑圧されていた過去の記憶が、それがなくなったために顕在化したんだろう」

「はい」と、先輩はうなずく。

 何のことだろう、と僕は首をひねった。

 ほどなくして、僕は思い出す。先輩が、かつて前世のことを僕に説明するとき、こんなふうに語っていたことを。

「気がついたら、小学生の女の子になっていた」と。

 つまり、それ以前の記憶――生まれ変わりを経験するまでの十年間、伊勢原美優奈として生きていたときの記憶はなかった。完全に失われていたのだ。

 それが今、悟史さんの記憶が消えたことで、もとに戻ったのだろう。

 やがて先輩の口から、衝撃的な事実が告白される。

 

「わたしは小学生のころ、ここにいる平林勇太に――いえ、平林勇太を中心とするクラスの全員に、いじめられていました」

 

「……え?」

 唐突に、凍りつくような冷や汗が背筋を流れる。勇太さんが、視線を伏せる。

 どうすればいいかわからず、僕の頭は混乱に陥る。

 ――死にたくなるほどの、絶望的な悲しみ。

 合宿のとき、先輩が僕に語った言葉が、突如思い返された。

 そして「ユウタくん」という名前。

 さらには、昨日先輩が口にした「勇太を見てると、とても悲しい気持ちになる」という言葉。

 ――どうしてわかってくれないの? どうして仲良くしてくれないの、ユウタくん。

 僕がどこかに置き忘れてきたそれらの破片ひとつひとつが、今結集し、とある事実を作り上げる。

 ……そうか。そうだったのか、泉。

 おまえがいつか言っていた、「大切な人のための嘘や秘密には正当性がある」という言葉。

 ようやくその意味がわかったよ。

 おまえにとっての「大切な人」ってのは、伊勢原先輩じゃない。

 先輩をいじめていた、兄の勇太さんだ。

 先輩自身が覚えていないのをいいことに、ずっとそのことを隠し、騙し続けてきたんだ。

 先輩は言葉を続ける。

「わたしは、悲しみにくれ、絶望のあまり、自ら命を絶とうと、首を吊りました」

 ……自殺?

 ――あの伊勢原先輩が、自殺?

 驚愕のあまり、体が震えた。

 結局のところ、自殺は失敗して未遂に終わったらしい。それでも先輩はしばらく生死の境をさまよって、病院でずっと寝込んでいた。

 合宿の晩、先輩が夢に見たのは、そのときの記憶だったのだ。

 いじめられて自殺未遂をし、運よく命は助かったが生きる気力もなく、絶望と悲しみにくれながら、ただ茫然と病院の天井を眺めている。

 死にたくなるほどの絶望的な苦痛をそこで味わったのも、当然のことだ。

「でも、そのときですね。あなたがわたしの身体に入り込んで、わたしを助けてくれたのは」

「助けたっていうほどのこともないけどね」

 悟史さんは、今までの暗い話を鼻で笑い飛ばすようにそう言った。

「実は俺も昔、学校でいじめられてたことがあったからね。だから、せっかく生まれ変わったのなら、いじめっ子のやつらに仕返ししてやろうと思ったんだよ。ボコボコにしてやったよ。小学校四年生程度なら、まだ男子と女子とで力の差はそんなにないし、こっちは高校生だった記憶が若干ながら残ってる。圧勝できて嬉しかったね」

「そんなことが、あったんですか……」

 僕はおそるおそる勇太さんに目を向けた。

 勇太さんは、口ごもりながら「終わったことだ」と小さく呟いた。

「そうだ。終わったことだ。今さら小学生のときのことを掘り返すのは、アホウの極みだよ。せっかくいじめから脱却して、仲直りもしたんだから、これからも仲良くしていきなさい」

「はい、そのつもりです」

 と言って、先輩はうなずく。「今となっては、別に恨みもありませんから。ただ、わたしはこうしてあなたにお礼を言えるのが嬉しいんです」

 そして伊勢原先輩は、車椅子の青年に向けて、深々と頭を下げたのだった。

「わたしを助けてくれて、本当にありがとうございました」

「いや、礼を言うのは俺のほうだよ。目覚めさせてくれて、本当にありがとう」

 呼応するように、悟史さんも車椅子の上で頭を下げる。

 そのとき、ふと思い出したことがある。

 生まれ変わりを実現させる神様が目の前に現れたとき、先輩――いや、悟史さんは何て言っただろう。

「俺のところに来るぐらいなら、もっと切実に生まれ変わりを希望しているヤツのところへ行ってやれ」

 ――神様は、確かにその願いを叶えたのだろう。

 いや、その願いを叶えたのは、悟史さん自身だったのかもしれないけれど。

 伊勢原美優奈先輩は、一度死んで、確かに生まれ変わった。

「とにかく、せっかく目覚めたんだから、妹さんと仲良くしてくださいよ」

 と、泉が会話を締めくくるように言う。「俺たちはもともと、そのためにきたんですから」

「わかってるよ。もとよりそのつもりだ。お気遣いありがとう」

 僕たちは悟史さんと手を振って別れ、病室を後にした。

 

                           ☆

 

 帰りの新幹線に乗っているあいだ、伊勢原先輩はずっと僕の書いた小説を読みふけっていた。

 勇太さんや泉が話しかけても、先輩は顔を上げることもなく、ただ「うん」とか「そう」とか生返事をするだけで、ノートのページを食い入るように見つめている。

「圭太が書いた小説、そんなに面白いのかよ?」と、泉が若干ふてくされたように尋ね、

「面白いよ」と、先輩は答える。

 僕は、その作品が自画自賛するほどよくできたものだとは思っていない。

 所詮はずぶの素人が生まれて初めて書いた作文みたいなものだ。語彙は貧弱で文章もめちゃくちゃだし、ストーリーも平坦で、結末もあっさりしている。

 それでも先輩がそうやって楽しそうに読んでくれるのを見るだけで、天にも昇るような気持ちになった。

 伊勢原先輩が僕の小説を気に入ってくれたのは、それが自分自身の物語だからなのだろうと思う。

 忘れてしまった生まれ変わりに関する記憶、それにまつわる行動や人間関係が、ほとんど現実に即した形で描かれている。

 それは、少なくとも先輩にとっては、文章の拙さを覆すに足る十分な面白みを持った。興味を引かれないはずがないのだ。

 そして、その小説が先輩にとっての特別なものである理由は、それだけではなかった。

「だってこの小説は、あたしが生まれて初めて読む物語だから」

 前世の記憶を失いたくなかった伊勢原先輩は、生まれ変わってから今までのあいだ、小説やドラマのようなフィクション作品にほとんど触れることなく生きてきた。本人は口にしなかったけれど、相当に寂しいことだったのは容易に想像がつく。

 その必要がなくなった今、先輩は物語に対する飢えを満たすかのように、小説を読むことに熱中した。

 そのなかで最初に出会った物語が僕の書いたものだったというのは、光栄に思う。

 きっと先輩は、その小説の内容を一生忘れずに覚えていてくれるだろう。

「あたしも、相澤くんみたいに小説を書いてみようかな」

 と、先輩はぽつりと呟くようにそう言った。

 

                           ☆

 

 電車が僕たちの家の最寄り駅についたときには、夜の八時を過ぎていた。

 この駅からだと、先輩の家は僕や泉たちの家とは方向が別になるので、ここで別れることになる。

 明日は平日だから、またいつも通りの学校生活が待っている。今日のうちに帰ってこられて本当によかった。

「それじゃあ、また明日、学校でね」

 そう言って、先輩は僕たちに向けて手を振る。

 その顔は、気のせいだろうか。どこか悲しそうな表情をしているように見えた。

 

 ――本当に、これで終わりなんだろうか。

 

 僕の心にふと暗雲がよぎる。

 誰もが幸せになれるハッピーエンドを描いて物語を完結させる。

 僕は伊勢原先輩とそう約束した。

 でもそう約束したはずの事実を、当の伊勢原先輩本人が忘れてしまって覚えていない。

 それは本当にハッピーエンドと言えるのだろうか。

 僕は本当に、約束を果たせたのだろうか。

 まだ、変えられる何かがあるんじゃないだろうか。

 

「伊勢原先輩!」

 

 僕は鋭い声で先輩を呼び止める。先輩は歩き出していた足を止め、こちらを振り返る。

「相澤くん……?」

 僕はいてもたってもいられず駆け出す。

 ――そして、先輩の身体に飛びつくように抱きしめた。

 柔らかな感触と、甘くかぐわしい香りが僕を包みこむ。

 唖然とする勇太さんと泉。

 驚愕して身じろぐ伊勢原先輩。その顔には、嫌悪の表情が浮かんでいたかもしれない。

 でもそれは、仕方のないことなんだ。

「ちょっ、何するの。やめて……」

「まだ小説は終わっていません。――最後の部分、書き直します」

「ええ!?」

 そこでようやく僕は、抱きしめていた先輩の身体を離す。先輩は気恥ずかしそうに僕の顔から視線を逸らせ、うつむいた。

「ダメだよ、相澤くん。そんな気やすく女の子の身体に触れちゃ」

「すみません」

 僕が素直に頭を下げると、先輩はこわばっていた表情をふっとやわらげた。

「……どうして、小説を書き直すなんて言うの? よくできてると思ったけど」

「だってあれは、先輩の物語じゃありませんから」

「え?」

 先輩はわけがわかないといったふうに目を丸くして首をかしげる。

 そうなんです。あれは、ただ生まれ変わりのことを描いたSF小説じゃないんです。

 僕が目指して書いたのは、伊藤先生の『僕と先輩の恋愛諸事情』みたいな恋愛小説。

 ――あれは、僕と先輩の物語なんです。

 だから、ここでは終われない。本当のハッピーエンドは、まだ迎えられていないから。

 いいでしょ、作者なんだから、それくらいの身勝手しても。

「くれぐれもグリム童話みたいな終わり方はなしにしてくれよ」と、昨日泉は言った。

 だけどね、やっぱり誰もが幸せになる最高のハッピーエンドってのは、童話を抜きにしては語れないんだ。

 だからさ――、

 ときには、グリム童話みたいな終わり方があってもいいんじゃないかな。

 

 伊勢原先輩。

 記憶を失ったなんて、嘘です。

 先輩は、まだ眠っているんです。

 僕が貴女を、目覚めさせてあげます。

 だから、先輩――。

 

「僕に、そのきっかけを与えるチャンスをください」

 

 僕はそう言って、もう一度、先輩の身体を力いっぱい強く抱きしめたのだった。

​初稿執筆:2016年

bottom of page