生まれ変わったら美少女になりたい!



エピローグ
好きな女の先輩との恋愛事情が、自分の書いた小説の通りになるなんて、そんなムシのいい話があるはずはなく、僕と先輩の関係は、その後も小さな浮き沈み(だと僕が思っているだけかもしれないけど)を繰り返しながら、さしたる変化もなく、ただ文芸部の先輩と後輩という、そのままの状態でだらだらと続いていた。
先輩が、沖岡悟史さんの意識を継いでいた過去の記憶を失ったことで、自分が男であるという自覚もなくなり、もしかしたら誰か別の男の人と付き合ったりするんじゃないだろうかと危惧していたけれど、意外とそんな様子もなく、彼女は相変わらず勇太さんや泉と一緒に登下校をしたり、たまに買い物にでかけたりというようなことをしていた。
聞くところによると、たとえ誰かから言い寄られても、彼女は依然としてすべて断っていたらしい。
その理由は「本を読むのに集中したいから」だとか。
伊勢原先輩は、例の生まれ変わり問題が解決してから、まるで人が変わったように、本を読むようになった。三〇〇ページ程度の文庫本なら、一日で一冊を読み終えるほどのペースだ。休みの日には、多いときで三冊も読むという。今まで本を読んでこなかった遅れを取り戻すためだ、と先輩は言っていた。
部室にある有名どころの作家さんの本は、片っ端から読み尽くしてしまったし、週に二回は学校帰りに書店へ立ち寄って本を買う。
家には、新しく千冊以上も収納できる大きな本棚まで購入したという。
さすがはお金に糸目をつけることのないお嬢様だ――と驚嘆するより先に、僕は先輩の読書に対する熱意に腰を抜かしてしまった。
今や文芸部内で一番多く本を読んでいるのが、伊勢原先輩だった。
――そんなこんなで季節は移り変わり、今は十二月になった。
今年は雪が降るのが例年より早く、上旬のうちからすでに町は白く染まっていた。
霧虹丘学園高校の生徒たちも、揃って厚手のコートに身を包み、すっかり冬の装いだ。
そんな登校中の生徒たちの背中を追い越し、僕は滑りやすい雨雪の積もった道路を、懸命に駆けていた。
寒い冬はあまり好きじゃない。だけどこの日ばかりは、顔を斬るような冷気も気にならないほど、僕の心は興奮でぽかぽかと温まっていた。
学校の玄関を抜けると、僕は教室へは向かわずに、文芸部の部室へと直行した。
どんなに早い時間に行っても、そこには必ずあの人がいることがわかっていたからだ。
呼吸を整え、部室のドアを少しだけ開いて、そっと中の様子を覗く。
机の上にうずたかく積み上げられた本の山、散乱する原稿用紙。
窓際の椅子に座り、難しい顔つきでノートパソコンに向かう少女。
ただでさえ天使のように整った美しい顔つきは、眼鏡をかけているおかげで一段と知的に見えた。
確か視力は悪くなかったはずだから、あれはおそらくUVカット用のものなのだろう。
「相澤くん――?」
先輩はふと気がつき、扉の反対側にいる僕に呼びかける。
「入るなら入って。エアコンの空気が逃げちゃう」
「は、はいっ! すみません」
覗き見していたことが一瞬でばれてしまい、僕は恥ずかしさで一時慌てふためく。
先輩は、怒ることもせず、眼鏡の奥から優しい笑顔でにっこりと笑いかけてくれる。
「おはよう。どうしてすぐに中に入らずに、外から覗いてたの?」
「いえ。先輩が集中しているところに入ったら、邪魔になるんじゃないかと思ったんです」
「外から覗かれてるほうが、よっぽど気が散って邪魔だよ」
それはごもっともです。僕は苦笑いしながら二の腕をさする。
「それにしても、今日は早いね。なにかあったの?」
「そ、そうなんです。先輩にお知らせしたいことがあったんです。聞いてください」
僕はいそいそと上着を脱いで椅子の背に掛け、鞄を机の上に置いて着席した。
先輩は、ノートパソコンのキーボードを叩いていた手を止め、UVカットの眼鏡を外した。
僕の話をちゃんと聞く気があるんだという意思表示をしてくれているのだ。
僕は興奮して高鳴る胸を押さえながら、先輩に告げる。
「実は、僕の書いたあの小説が、ライトノベル新人賞の一次選考を通過したんです」
先輩は、にわかにパッと瞳を輝かせ、手を打って喜んだ。
「えっ、本当!? すごいじゃん、よかったね!」
まるで自分のことのように喜んでくれるのが嬉しい。
僕の小説――タイトルは、ライトノベルらしく『生まれ変わったら美少女になりたい!』というものになった。
僕は伊藤先生の勧めで、それをとある出版社の新人賞に応募したのだ。
あの小説を完成させたのは、五月のゴールデンウィーク明け。書き上げてすぐに応募するのはさすがに無謀だということで、夏にある大きなレーベルの新人賞に向けて、伊藤先生の厳しい指導のもと、改稿をしていくことになった。
改稿作業は過酷を極めた。伊藤先生の指導は、その柔らかな物腰からは想像ができないほど厳しく、何度も書き直しの連続だった。
ようやく作品が完成して、無事に投函できたのは、夏休みが終わって二学期が始まる直前のことだった。
それから待つことおよそ四か月。僕の作品が一次選考を通過したとわかったのは、昨日の夜遅くのことだ。
もちろん、ラノベの賞が他の文学賞と比べて、一次選考の通過率が高いのは僕も知ってる。それでも、通過数は応募総数の十分の一を切っていた。僕は嬉しさと興奮のあまり、朝方になるまで、ほとんど寝つけなかった。
寝てもいないのに元気いっぱいなのは、興奮冷めやらぬ勢いのおかげだろう。
「そっかー。よし、それならあたしも相澤くんに負けないようにがんばらないとね!」
僕の報告を聞いて、先輩は胸の前で拳を握り固めて笑顔を作る。
そう。実を言うと伊勢原先輩は、このGW以来、ただ熱心に本を読みはじめたというだけではなかった。
なんと彼女は、自分でも小説を書きはじめていたのだ。
――理由は、僕の書いた小説を読んで影響を受けたから。
ちょうど僕が伊藤先生の『僕と先輩の恋愛諸事情』を読んで、小説を書きたくなったのと同じように。
「見ててね。あたしだって年内には完成させて、新人賞に応募するんだから」
「え、年内には完成するんですか? てことは、もう大部分書き終わってるんですか?」
「うん。実はもうラストまでは書き上がってて、今は文章の推敲してるところなんだ」
その事実は初耳だったので、僕は目を剥いて驚く。
僕は先輩の執筆状況をまったく把握していないどころか、小説のジャンルはもちろん、タイトルさえ知らなかったのだ。
聞こうとしても、先輩はかたくなに拒んで、教えてくれなかった。
「完成したら、一番最初に相澤くんに読ませてあげる。だから、それまで待っててね」
書きはじめの五月ごろ、先輩は僕にそう言ってくれた。
実際その言葉通り、先輩は自作小説を、誰にも見せようとはしなかった。たとえ相手が川辺先輩であっても、伊藤先生であっても。
だから、僕はその日がくるのをずっと待ち遠しく思っていたんだけど。
「……読ませてもらっていいですか?」
僕がそう言うと、先輩はにわかにぼっと顔を赤くして、両手をふりふり慌てふためく。
「いやっ、まだ全然完成度低いし、自信ないし、恥ずかしいし、それに……」
まあ、気持ちはわかるけどね。誰だって、自分の創作物を他人に見られるのは恥ずかしい。
だけど、約束は約束です。僕だって書き上がってすぐのものを先輩や泉に読ませてあげたんだから、先輩も観念して僕にそれを読ませてください。
「しょ、しょーがないな。内容は……まだ、誰にも言わないでね」
先輩はそう言いながら、対面席に座る僕に向かって手招きをする。僕は誘われるまま、先輩の後ろへ回り、ノートパソコンの画面を覗き込む。
そこには、文書作成ソフトを用いて執筆された、先輩の自作小説が映し出されていた。
僕がそこで目にしたのは、まるで素人が書いたとは思えない滑らかな筆致。詩的表現を多用した優れた文章表現。
臨場感のある情景描写。そして心を揺さぶる情感豊かなストーリーで、僕は見るまに、先輩の書いた物語に引き込まれていった。
すごい……。僕の作品なんかとは次元そのものが違う。これは完全にプロの領域だ。
さすがはこの短期間に何百冊もの本を読んできただけある。世界観の作り込み方が、桁はずれだ。
先輩の書いた物語は、冒頭部分を読み進めてみるかぎり、どうやら恋愛小説のようだった。
そこは恋に恋する乙女の趣向。先輩の少女らしさが表れていて、微笑ましいとさえ思った。
だけど、その筋書きに、僕はどうも引っかかるところがあった。
「あれ? これって、まるで……」
僕は無意識に呟く。
――この話、知ってるぞ。どこかで読んだことがある。
そのとき、本文の前に作品のタイトルが書かれていなかったことを僕は唐突に思い出す。
おそらく、僕が画面を覗き込む直前、先輩が恥ずかしがって咄嗟に消したのだろう。
だけど、先輩の犯した大きな誤算。それは、ファイル名に作品タイトルをそのまま付けてしまったことだった。
そのミスに、自分ではもうとっくに気がついているのだろう。もはや諦めの境地に達した彼女は、まるで林檎の果実みたいに耳まで顔を真っ赤にして、黙って涙目でうつむいている。
僕は、ウィンドウの上部に表示されているファイル名に目をやった。
そこには、こう記されていた。
『わたしを導いてくれた人――大好きな後輩くんへ』